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里見の歴史は前期後期となります。地に足のついた後期の歴史を、一緒に追いかけてみましょう。
いざ、出陣。 ◆ ◆ ◆ 小弓公方・足利義明 この人物、ちょい前に集中UPしていた「冬の光」にも登場していましたね。覚えておりますか? 忘れてしまっては、ちょいとツライ。里見家との大事なキーパーソンが、この人物であり、この子孫たちであります。とにかく小弓公方家は、里見氏の庇護で戦国を生き抜き、江戸時代になってからは、足利将軍家に連なる名門として遇されました。里見氏のおかげです!これは、いろいろ差し引いても、断言できるところです。 さて、足利義明。 もう一度、おさらいします。 足利右兵衛佐義明。 出生年月日不詳~天文7年10月7日没。第2代古河公方・足利左馬頭政氏の次子。長男は第3代古河公方・足利高基で、義明はその弟になります。父・政氏の意向で出家、鎌倉鶴岡八幡宮若宮別当雪下殿の空然(こうねん)として、僧籍に属していました。しかし、父と兄が骨肉の争い(永正の乱)を始めると、還俗して上総国真里谷城主・真里谷武田信清から支援されて中原の雄としての道を歩みます。 真里谷信清は後世入道名をして真里谷恕鑑と呼ばれます。武田晴信を武田信玄、上杉輝虎を上杉謙信とよぶようなものと覚えてください。 真里谷信清は上総の覇権をめざし、千葉氏や原氏などといった旧来の勢力と戦います。永正13年(1516年)、相模の伊勢宗瑞(北条早雲)から援軍を受けて、真里谷信清は原氏と戦っています。この原氏も主君千葉氏を下剋上で追い落とす勢いで勢力を伸ばしていました。下総原氏宗家当主・原式部大夫胤清は小弓城で勢力を伸ばしていましたが、真里谷信清の攻撃を受けます。 真里谷信清は勢力拡大のため、古河公方・足利高基と対立していた弟の足利義明を迎え入れ、一己の神輿を擁立したのです。こうすることで大義名分が生じ、また、自らも〈房総管領〉を称して、古河公方陣営にとどまった本家筋にあたる庁南武田氏とも対峙したのです。 義明は下総国小弓城を攻撃して、これを占拠します。そして自らを小弓公方と称して、古河公方である兄と対立しました。 真里谷信清が没すると、真里谷武田氏から里見氏へと、義明は接近しました。 天文7年(1538)、義明は大軍を起こして下総国国府台に出陣します。北条氏綱と決戦を行ったこの一戦を、第一次国府台合戦といいます。 義明は自ら陣頭指揮をとるほどの奮戦をしましたが、氏綱の反攻に遭い、なんと戦死してしまいます。 このときの国府台合戦では、里見義堯の動きは記録的には消極的に映ります。撤収も早かったようですが、この戦力温存は、結果的には幸いする点が多かったように傍観できます。 小弓城にいた義明の眷属を、里見義堯は安房へ匿っています。嫡男・足利義純が国府台で義明とともに討ち死にし、幼い足利頼純が里見義堯に庇護されました。ほかにも女子数名も庇護されています。 この子どもたちが過酷な運命を里見の庇護下で長じる様を、夢酔は房州日日新聞連載作品「春の國」で表現しました。 ただ、「春の國」は勇壮な戦国浪漫ではなく、戦国ラブストーリーという切り口で描いています。だから足利頼純よりも二人の女子をクローズアップしています。この女子が、青岳尼と旭山尼。 さてさて、「春の國」は、ここに登場するでしょうか? どうしましょう? ◆ ◆ ◆ 戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。 「2014年に里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」 皆さまの温かいご声援をお願いします。 ◆ ◆ ◆ ランキング、一時期は一位を頂戴しましたが、毎日更新で結構しんどいと実感しました。焦らず急がず、地道に更新したいと考えております。基本的には、週1~2回の姿勢を取っていきたいと思いますので、皆さまご容赦ください。 いや、さぼり癖ではなく、里見関連新作の、いよいよクライマックス考察中です!労力をそちらに回したいと存じます。御免なさい。 呼称が「東日本大震災」に統一されましたね。 各地で花見が自粛されておりますが、季節は着実に巡っております。被災された皆さまが、一日も早い笑顔を取り戻されることを、心よりお祈り申し上げます。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.04.09 14:14:02
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