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里見の歴史は前期後期となります。地に足のついた後期里見氏の歴史を、一緒に追いかけてみましょう。
いざ、出陣。 里見義弘 里見義堯の嫡男・義弘。後継者です。 彼については勇猛なイメージや繊細なイメージ、どちらを向いていいものか、未知数です。でも、猛将のイメージは父親のものですから、どうなんでしょう。皆さんのイメージは、どちら? 【データベース】 生年 享禄3年(1530) ※大永5年(1525)説もあり 没年月日 天正6年5月20日(1578) 官位 左馬頭 家族構成 父 里見義堯 母 土岐為頼の娘 正室 青岳尼 継室 足利晴氏の娘 子 淳泰・正木義俊・薦野頼俊 養子 里見義頼 居城 佐貫城 当時の里見家は、一貫してアンチ北条でした。永禄4年(1561)に小田原へ進撃した上杉謙信の関東入りに呼応したり、永禄7年(1564)の第二次国府台合戦で北条綱成と戦うなど、まさに江戸湾の制海権を睨んだ対立をしていたのです。三船山の戦いで北条軍を撃破してからは、上総佐貫城を本拠地として安房から上総・下総にかけて、里見家として領国最大の黄金期を築き上げるなど、結果的には猛将の片鱗を覗かせております。 梓弓おして向はば物部の いる一すぢも何か引くべき 勇ましい和歌が残されております。これを詠んだのは里見義弘、いつの頃に詠まれたのかは定かでありません。 単純に物部を人名としたか、例えとしたものか。夢酔は和歌心がございませんから、直観というかなんちゃってというか、後者のような気がしてならない。物部という漢字の読み方を〈もののふ〉と置き換えると、古代朝廷に仕えた文武の官人という意味になります。 北条氏は早雲若年の頃、室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏の出自ということもあって、官人に当てはまります。伊勢の素浪人という風雲の響きも、いまはむかし。日本史の研究はめざましく進んでござります。 とまれ、そういう解釈で伺えば、北条氏との対立の歌かしらんとも感じずにいられない。すみません、夢酔、和歌の心得がございません。お叱り、謹んでお受けします。 義弘は晩年になって、北条氏と講和します。それこそ父・里見義堯の死後、ようやくです。この講和は内房の流通活性化に良い意味で影響したとされます。 この晩年、里見義弘は後継者問題という汚点を残しました。 正室に迎えた青岳尼は、一般的通説では早世したことになっています。そのため弟にあたる義頼を養子にしました。その後、古河公方家から継室を迎え、男子・梅王丸を設けます。 養子か、のちの子か、その決定をしないまま、義弘は病没しました。当然のことながら、里見家は後継者争いの泥沼に陥ります。 義弘に近いところで生活していた佐貫城の梅王丸には、上総の勢力がバックにつきました。義頼のバックには安房の勢力がつきました。これは、引いては小弓公方と古河公方の勢力対立という構図を透かしています。 ここで一般論としましたが、異説によると、義頼は青岳尼の子ではないかともされています。 そうだとすると、小弓公方と古河公方の勢力対立が頷けるのですが、どうでしょうね。 ◆ ◆ ◆ 戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。 「2014年に里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」 皆さまの温かいご声援をお願いします。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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