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八犬伝じゃない里見の歴史、みんなはどこまで知ってるかな?
さあ、一緒に追いかけてみましょう。 時は戦国ただなかへ、いざ、出陣。 里見の残した経済遺産 館山という城下町の発展は、里見時代の一瞬の大輪といってよいでしょう。里見家が去ってからの館山は、城下町ではなくなるのですから。ただし、江戸時代に引き継がれる経済基盤の原点は、間違いなく館山城主・里見氏の時代に築かれるものです。 経済の要となったものは、生産と物流。 このうち生産の拠点は、館山の外にも置かれました。それは農林であったり、海産であったり、加工品であったかも知れません。城下町発展に貢献したのは、間違いなく、物流です。それは城下の市による領内交易も含まれますが、館山は立地的に関東屈指の利点があるのです。 それは、江戸湾の出入り口、ということです。 戦国時代、この江戸湾の利権には交易のほかに軍事という意味合いもありました。 江戸湾を掌握すれば、三浦半島(六浦湊)にも、六郷河口(品河津や川崎)にも、日比谷入江(江戸城)にも、利根川水系(古河足利家への連携)にも、上総・安房の権益にもつながるのです。里見氏が躍起になると同時に、小田原北条氏もまた、江戸湾を欲します。 理由は、同様です。 小田原の役が終わり、徳川家康が関東の主になったとき、やはり彼も江戸湾に着目しました。おそらく軍事よりも交易の面を重視したことでしょう。その出入り口に居座り続ける里見氏の存在は、やはり厄介だと感じたに違いありません。 そうでしょう? 出入りに通関税を設けられたら、里見はウハウハです。かといって、徳川はこれを迂回することもできません。三浦半島側に徳川水軍きっての名将・向井正勝を常駐させた時期がございますが、それだけ江戸湾を重視していたことを意味しています。 江戸湾における里見氏の海運拠点は、いくつか分散されていたと考えられます。ただし、北条氏が絶えてからは安房一国に押し留められたため、かなり減少しています。 それでも里見水軍の拠点がそのまま転用され、いわゆる軍民共用の湊になったことは想像に易いです。 その最大の拠点が、いまも館山に残されています。 高の島。鷹ノ島。漢字当て字は時代毎に様々ですが、ここでは鷹ノ島としておきましょう。 かつては海に浮かぶ鷹ノ島、館山海軍航空基地の埋め立て造成により、現在のような陸続きの地形になりました。館山海軍航空基地は戦後を経て、海上自衛隊館山航空基地となりました。 里見の以前から、この島は漁民の信仰が寄せられていました。 ここに鎮座する鷹之島弁財天は、平安時代に祀られたと伝えられます。鷹ノ島の沖に並ぶ沖ノ島にも、宇賀明神社があり、鷹ノ島の弁財天と共に建立されたものと伝えられます。 この鷹ノ島は里見水軍のみならず、館山の商業湊として、重要な拠点だったのです。 鷹之島弁財天から臨む館山城の風景は、城下との一体感を感じずにはいられません。 館山の湾を、古来より鏡ヶ浦といいます。静かな水面は、高台から鏡のように映えたのでしょうね。 里見氏が館山を去ってからも、安房の湊は栄えたことでしょう。 里見に代わり徳川氏が各地に代官を送ったとされますから、その価値観は充分認識していた筈です。 幕末。 浦賀へやってきた黒船の姿を、館山の人々は目を凝らして遠望したかも知れません。日本人初の太平洋横断をした咸臨丸の姿も、ここから遠望できたのでしょうか。鳥羽伏見から敗走してきた将軍の乗る軍艦も、五稜郭へ渡る幕府艦隊の汽笛も聞いたのでしょうか。 館山という立地は、大きな袋の綴じ紐のような場所なのです。 ◆ ◆ ◆ 戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。 「2014年に里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」 皆さまの温かいご声援をお願いします。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.07.19 08:42:07
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