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八犬伝じゃない里見の歴史、みんなはどこまで知ってるかな?
さあ、一緒に追いかけてみましょう。 時は戦国ただなかへ、いざ、出陣。 里見義康元服 里見義頼の嫡男・太郎義康。天正13年に元服したと伝えられます。里見にとって、彼は近世大名への脱皮を果たす重要な人物です。時として、秀吉や家康とも堂々と接した義康。彼の元服期、安房はようやく一つにまとまりつつありました。 義康元服にあたり、多くの武将が祝着の意を示してきました。表向き平和な北条氏からもです。これにあたり、義康は自ら返答をしております。 為元服之祝儀、去比申届候処、為御返礼、松田□兵衛大夫方被指越候、 歓喜之至頼入候、殊自貴辺太刀一腰・鳥目参百疋・刀一并三種三荷到来、 珍重候、委細井上但馬守口上可有之候、 恐々謹言、 霜月十日 源義康 謹上松田尾張守殿 これは北条家重臣のひとり、松田尾張守憲郷宛へ送付したものとされます。 読み下しにすると、だいたいこんなところです。 元服の祝儀として、去るころ申し届け候処、御返礼として、松田右兵衛大夫(松田康長)方を指し越され候。歓喜の至り頼み入り候。殊に貴辺より太刀一腰、鳥目(銭)参百疋、ならびに三種三荷到来。珍重に候。委細は井上但馬守(里見氏の家臣)口上、これあるべく候。 恐々謹言。 すなわち、元服の祝儀の返礼として松田右兵衛大夫康長が義康のところへ赴き、家老・松田尾張守憲秀からの進物を贈呈したことに対して、義康が謝意を述べているものでございます。 古典にこの義康元服の状況を知ることができます。『里見家年中書札留抜書』にある「房州於八幡神前ニ御曹司様御元服之事」という記事に、里見義康の元服式次第が紹介されております。 それによると、鶴谷八幡神宮社前(だろう)で行われたその儀式は、里見義頼「本地堂ニ御座」のもと、代々の先例により造海(百首)城主・正木淡路守と勝山城主・正木安芸守を左右の介添役とし、髪を落とします。まず正木淡路守が御曹司の髪を切り(童髪から月代を剃った髪に直す)、使用した刀は家臣・角田図書助が請け取って一同へ披露します。そのあと岡本城へ帰城し、義康及び義頼、義頼御台、御前様(義康の実母?)、御乳之人(乳母)への進上物が行われています。 元服後の御曹司義康には正木時茂の名跡を継いだ義康の弟・時堯と勝山城主・正木安芸守が従い儀式は進みます。 三献の御盃は義頼から始まり、義康、継いで御別当正木時堯、正木淡路守、正木安芸守の順に渡されます。 この儀式形式は、古式に則った作法とされています。 恐らくは、八幡太郎源義家の時代に確立されたものであるかも知れません。 こうして、里見義康は大人の仲間入りを果たしました。 里見義康、御歳数えで13の話です。 10月1・2日は南総里見まつりです。 夢酔もぜひ、今年は伺いたいと考えております。皆さんとお会いできたら、いいですね。 このお祭りは、恥ずかしながら一度も足を運んだことがございません。 ゆえに、心より楽しみにしております。 ◆ ◆ ◆ 戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。 「2014年に里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」 皆さまの温かいご声援をお願いします。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.09.02 06:38:54
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