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八犬伝じゃない里見の歴史、みんなはどこまで知ってるかな?
さあ、一緒に追いかけてみましょう。 時は戦国ただなかへ、いざ、出陣。 正木氏群雄 里見氏と二人三脚の正木氏。里見義頼が当主となる過程で内乱となりましたが、そのとき正木氏はどうしていたでしょうか。 当時、正木氏は大きく分けて3つ。それぞれが勢力を持った独立性を持って、里見氏の下に属していたのです。ただし、里見氏と己との価値観の違いを見出すと、躊躇いなく謀叛を起こすこともあったようです。 義頼vs梅王丸期。 正木氏のそれぞれにスポットを当ててみましょう。 三様の正木氏、どのような一族だったでしょうか。 まずは正木大膳亮時茂の系譜より、この家を継いだのが養子の正木大膳亮憲時(弟・時忠の子)。実子はいたのですが、嫡男・正木大炊介信茂は第二次国府台合戦で討ち死にしてしまい、この名跡が絶えるのを惜しんだ里見義弘によって養子入りした説があります。正木宗家というべき存在です。 時茂弟にして憲時の実父が、正木左近大夫時忠。これが外房勝浦正木氏として栄えます。 そして、内房勝山にも正木氏がいました。 この三者が、里見家内乱に大きく関わります。内房正木氏は安房の棟梁として早くから義頼を担いでいました。外房正木氏も第二次国府台合戦で一時離反したものの里見氏に復帰していました。 ただひとり、宗家の正木大膳亮憲時が小田喜(現大多喜)で独立の動きを取ったのです。あるいは、梅王丸と連携していたのかも知れませんが、明確に云えることは、義頼と対立したということです。 天正8年(1580)、里見義頼は上総を制圧し梅王丸を出家させました。内乱の早期終息のため、義頼は対立先よりも早い動きを取りました。これが梅王丸を制した要因です。こうして、里見氏の領国全てを継承することに成功した義頼は、正木大膳亮憲時の処遇を考えます。 現在、唯一抵抗を続ける内乱勢力は、彼だけでした。 翌年、義頼は正木憲時を殺害します。こうして、自身の体制を固めていくことに成功しました。 ただし心残りがあるとすれば、里見の片腕といえる正木氏宗家を滅ぼした無念に他ありません。 義頼は幼い次男をして、正木宗家の養子としたのです。これが、二代目正木大膳亮時茂となるわけです。 この二代目・正木時茂は、実兄にあたる里見義康を補佐した名将のひとりでした。 義頼は安房上総をまとめ、それを支える正木氏がいたのです。 10月1・2日は南総里見まつりです。 夢酔もぜひ、今年は伺いたいと考えております。皆さんとお会いできたら、いいですね。 このお祭りは、恥ずかしながら一度も足を運んだことがございません。 ゆえに、心より楽しみにしております。 ◆ ◆ ◆ 戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。 「2014年に里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」 皆さまの温かいご声援をお願いします。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.09.04 17:41:06
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