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八犬伝じゃない里見の歴史、みんなはどこまで知ってるかな?
さあ、一緒に追いかけてみましょう。 時は戦国ただなかへ、いざ、出陣。 東国武将の申次役 豊臣秀吉が天下統一のために屈服すべき最後の敵として見定めたのは、小田原城の北条氏政・氏直父子です。 そして、関東支配を宿願とする北条氏にとって、古来より根付く坂東武者は受け容れ難い新興勢力でした。長年の坂東の伝統に染まらぬ北条氏を拒絶する豪族たちは、進んで秀吉と誼を結びます。双方の思惑は、北条という忌み役を通じ、利害を一致させたのでした。 秀吉は多くの豪族に対し、その取次ぎ役を奉行衆に任じます。 彼らは個々に請け負った相手を上手に懐柔していくこととなります。やがては太閤検地の実行者として、領民に牙を剥くことになるのですが、ここでは北条に対するよき後ろ盾となったわけです。 さて、どのような人物が、どのような坂東武者に充てられたでしょうか。 石田三成 → 佐竹義重・義宣 浅野長政 → 結城晴朝、宇都宮国綱 増田長盛 → 里見義康 ここで里見氏担当となった増田長盛ですが、里見氏に限っては、小田原の陣でもうひとり取次ぎをする人物が、長束正家です。モテモテですね。 彼らはこののち検地を執行する役を担い、東国武士の国力を直接探ることで、秀吉の覚え目出たい存在になっていったのです。まあ、優秀な文吏である彼らにとって、東国とのパイプ役はさほど苦にもならなかったことでしょう。 里見義康と豊臣秀吉をつなぐパイプ役だった増田長盛。 どんな人物だったんでしょう。 ◎増田長盛 生誕は天文14年(1545)。尾張国中島郡増田村(現在の愛知県稲沢市増田町)または近江国浅井郡益田郷(現在の滋賀県長浜市益田町)出身とされます。前者なら古くからの織田家中になりますね。 増田長盛が織田信長家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に召し出され300石で仕えるのは、天正元年(1573)。それまでの前歴は不明です。一説には、当時流行していた一向宗徒であったと云われます。 秀吉麾下として、中国攻めをはじめとする多くの戦に従軍。鳥取城攻めでは「陣中萬の物商の奉行」を命じられました。 天正10年(1582)、本能寺の変により秀吉が天下に近づくと、増田長盛は奏者に任じられ上杉景勝との外交交渉などを担当します。 天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いでは先陣を務めて兜首二つを取りました。更に翌年3月の紀州攻めでは、『根来寺焼討太田責細記』によると大谷吉継と共に2,000の兵を率いて従軍し、根来衆の津田監物、西谷延命院を斬ったという武功も記されています。 こうしてみると、ただの文吏ではない、武骨さを感じさせます。 この間に、里見外交をしていたのです。天正18年(1590)の小田原の役において、里見義康が臣従する際の条件について、粗相のないよう彼はアドバイスをしています。 北条氏が滅亡すると、長盛は下野・常陸・安房の大名に対する豊臣政権の取次を一手に引き受けていきます。浅野長政との確執もあり、そのトバチリと状況で、里見氏は安房一国に押し込まれて上総を没収されたと云われますが、そんな迷惑なことも、ひょっとしたらあったかも知れませんね。 とにもかくにも、したたかな畿内の人物だったようです。 関ヶ原の折は石田三成に従いつつも家康に通じ、結局は改易し、身柄を高野山に預けられます。高野山は里見家にとっても縁の深い場所、よくよくのご縁だったようです。 10月1・2日は南総里見まつりです。 いよいよ、明日ですね! 夢酔も朝イチの東京湾フェリーで、ぜひ伺いたいと考えております。皆さんとお会いできたら、いいですね。東京湾フェリーHPでも、まつりの宣伝はいってますよ。 心より楽しみにしております。 ◆ ◆ ◆ 戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。 「2014年に里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」 皆さまの温かいご声援をお願いします。 にほんブログ村 お祭りから帰ったら、また報告しますね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.09.30 06:33:15
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