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散文小径

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2011.10.15
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 八犬伝じゃない里見の歴史、みんなはどこまで知ってるかな?
 さあ、一緒に追いかけてみましょう。
 時は戦国ただなかへ、いざ、出陣。


 正木頼忠


 正木頼忠は外房正木氏の一族です。しかし、ただの家臣Aではありません。この人物のおかげで、改易後の里見旧臣の再仕官が容易になったとも云われます。
 生年不詳の彼は、勝浦正木氏当主・正木時忠の次男として誕生しました。その兄は、正木時通といいます。
 頼忠の父・時忠は、里見家臣のなかで伝説となった正木時茂の東上総侵攻に従い、攻め取った勝浦城を任され勝浦正木氏を興しました。しかし、時茂の没後、その子・信茂が第二次国府台合戦で討死にする等の不幸により、小田喜城の正木宗家は勢力を弱めてしまいます。このとき、あろうことか、時忠は里見氏からの自立を目論み、永禄7年(1564)に里見氏を裏切って、北条氏康に属してしまうのです。
 このとき、次男である頼忠は人質として小田原城に送られました。
 小田原において厚遇された頼忠はそこで結婚も斡旋されます。相手については諸説ありますが、『寛政譜』などでは北条氏隆(北条氏尭の誤伝または田中泰行の娘で北条氏尭の養子とも)の娘とあり、『南紀徳川史』では田中泰行娘(岡野融成の姉、氏隆養女)とされています。夢酔は草稿中、北条氏隆の娘説とし、熱烈な法華宗信徒に描いています。この娘と結婚した正木頼忠は、嫡男・為春と長女・於万を儲けています。
 このままでいけば、北条の客将として、彼の生涯は終わったかもしれません。
 しかし、まもなく父・正木時忠は里見家に詫びを入れ帰参してしまうのです。理由は、北条氏が駿河を巡り甲斐武田氏との抗争を繰り広げたため、房総の正木氏は思うような支援が得られなく孤立して行ったものと考えられます。あるいはこれを、北条の背信と取ったのかもしれません。
 こうなると、頼忠の立場が大きく変わります。既に北条氏と婚姻関係にあることから殺害こそ免れたものの、日常生活は厳しく監視されたのです。頼忠は辛抱強く忍従しました。
天正4年8月1日、父・時忠が没します。既に兄・時通が家督を天正3年11月8日に病死しており、頼忠は勝浦正木氏の家督を相続するため勝浦城に戻りました。ただし、妻や子等は小田原に残すことになったのです。
 これまで一貫して「頼忠」と称してきましたが、家督相続の時期にその名に改めていることが記録に残されています。これまでは、初名である「時長」という名でしたが、正しくはこのときより「頼忠」に改名しています。便宜上、用いましたので、あしからず。
 さて、里見家も義頼と梅王丸の内乱の頃となり、小田喜の正木憲時が反乱を起こすと、頼忠は義頼に従いこれの鎮圧に尽力しました。これが義頼の信頼を得たのです。その後、里見義堯の娘を後室として迎えた頼忠ですが、情が濃い人物だったのでしょうか、再三にわたり小田原の家族を引き渡すよう交渉を続けます。北条にとっては大事な人質ですが、ほどなく里見氏との和睦が整理すると、男子のみ引き渡されました。妻に至っては、蔭山氏広と再婚していたため、ついに呼び寄せることが叶わなかったそうです。
 
 正木頼忠の子供は次のとおりです。
 正木直連・正木(のちの三浦)為春・糟谷軍次郎・正木康長・正木時明・三浦定利・真鍋定時・於万。そして養子の正木義俊。
 このなかで特筆すべき人物が、於万です。

 頼忠が房総へ戻った後、母は北条氏家臣・蔭山氏広と再婚しました。万はこの義父の元で育てられたのです。伊豆で成長した万は、16歳頃、徳川家康に見初められて側室となります。丁度、豊臣秀吉の小田原征伐の頃でしょうか。
 於万が家康に見初められ側室として寵愛を受けるようになると、慶長3年(1598)家康より頼忠に出仕が求められます。しかし、自らはこれを固辞し、子の為春が代わりに応じました。里見家にあって家康に近い人物となったことで、頼忠も立場が苦しくなったようで、その頃に、隠居をしたといわれます。
 義父にあたる蔭山家は、代々日蓮宗を信仰しており、於万もその影響を受けていたとされます。もっとも実父・頼忠の御当地である勝浦も、日蓮誕生の聖地として、その信仰は厚いものがありました。実父にしろ養父にしろ、於万が宗門に溺れる素地は多分に存在していたのです。
 於万は家康との間に、紀州徳川家祖・頼宣と水戸徳川家祖・頼房を設けております。正木為春は紀州家家老として、頼宣に仕えました。
 養珠院と呼ばれた於万は、承応2年(1653)に死去しました。

 為春が於万の産んだ徳川頼宣に従い紀伊に入部すると、頼忠も移り余生を過ごしたとされます。その頃、里見氏は改易されていました。





                  ◆  ◆  ◆



 戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。
「2014年に里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」
 皆さまの温かいご声援をお願いします。

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 お問い合せ先は、こちら。
 房総里見会事務長
   鈴木惠弘
    〒294-0027 千葉県館山市西長田72




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Last updated  2011.10.15 07:36:06
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作楽@ Re:随筆・あっそう!里見発見伝(02/18) 引っ越しされるんですね!了解しました。
としぞう@ はじめまして うちも楽天からアメーバに変わりました。 …
夢酔 藤山@ Re:奥平家と大久保家(02/06) いっちぃさん 仰せの通りです。 この…
いっちぃ@ 奥平家と大久保家 奥平信昌の娘が大久保忠常(忠隣の嫡男)に…
夢酔 藤山@ こんばんは 10月1日の全国里見一族交流会・館山大会に…
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