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八犬伝じゃない里見の歴史、みんなはどこまで知ってるかな?
さあ、一緒に追いかけてみましょう。 時は戦国ただなかへ、いざ、出陣。 岩崎与次右衛門 海の一族である里見氏。海を支配した者がそれを用いるものは、軍事か、ビジネスか。この二面は戦国時代、表裏一体で、どちらにウェイトを置くかの差異があると思われます。 北条氏は前者だったかも知れません。湊に唐人町があっても、北条は海を軍事利用に見ていたのかも知れません。それほど江戸湾の支配に執着したのでしょう。 里見は、どうだったでしょう。 いろいろ聞いたりしましたが、里見水軍って、全容が見えてきません。滅び去った一族の記録、という一言で片づけられない、秘密めいたものがありますね。 前者後者は別として、館山を海商の地に発展させた功労者を、紹介します。 岩崎与次右衛門。 天正12年、里見義頼は岩崎与次右衛門を重く登用します。家督争いも終息し、これから内需を、というタイミングの人材活用です。 岩崎与次右衛門は義頼より現・館山城の西にある沼之郷に屋敷を与えられ、商売を任されました。この成功が、後に岡本城から館山城へ移転する理由付けになったのかも知れません。 移転前の館山城は、どちらかといえば、海へ開けた小城という存在でした。もし、里見義頼が軍事のことだけを考えていたら、移転よりも、従来の岡本・勝山・金谷・造海といった軍港を強化する行動を取ったことでしょう。館山の鷹ノ島を整備し、漁港を商業の場に一新し、その道に長けたプロを据える。義頼の狙いは内需を富ますために行う、外貨獲得戦略だったのは、どうやら間違いありません。 里見義頼から義康へ代替わりする頃、館山の城下町は、上町・仲町・下町という町割りがされました。商人頭として岩崎与次右衛門のほかに中山彦五郎らが、城下の流通商工を活性化させる市をとりしきっていました。里見義康は城下町法度を制定し、館山城下以外での商取引を禁止しています。これは城下町育成のための、強引な保護政策であります。そうさせてまで、海運都市に変えていこうとする里見氏の意志が感じられます。 岩崎与次右衛門は里見氏存続の間、館山の商いを握ると同時に、名主という立場で治安維持にも努めました。こういう商人が采配して町の自治を任される姿は、堺のそれを彷彿させます。 里見氏が改易されると、岩崎与次右衛門も禄を返上し謹慎しました。しかし、代官として館山へ来た中村弥右衛門は、元和元年(1615)4月頃、船乗りを集めて館山の新井浦と楠見浦から、大坂の陣に向けての兵糧米輸送を命じています。最後の大戦さにあたり、後方より徳川を支えたのは、館山の良港だったわけです。 中村弥右衛門は補佐役の熊沢三郎左衛門を用いると同時に、かつて館山城下町建設の責任者であった名主・岩崎与次右衛門を探し出し、仕官を迫ります。高齢を理由に固辞する岩崎与次右衛門を、中村弥右衛門は許しませんでした。その類稀なる才覚を捨て置けなかったのでしょう。城下での商人支配や米売買の管理、あるいは江戸城への魚の献上など、中村弥右衛門は熊沢三郎左衛門・岩崎与次右衛門に采配を任せました。 その働きに感服した中村弥右衛門は、翌年、幕府の許可のもと、98か所の寺社に里見氏支配とほぼ同じ所領を認めました。年貢も、改易のあった慶長19年(1614)にさかのぼり、安堵したとされます。 里見義頼の人材発掘は、戦国末期から幕府創生期に大きな結果を残したのです。 ◆ ◆ ◆ 戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。 「2014年に里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」 皆さまの温かいご声援をお願いします。 お問い合せ先は、こちら。 房総里見会事務長 鈴木惠弘 〒294-0027 千葉県館山市西長田72 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.10.13 22:22:00
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