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明治の町家   姫路の春霜堂  

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47弦の詩人@ Re:渡辺和子先生 のお言葉(06/02) ご無沙汰いたしております。お変わりござ…
松風6923@ 今までありがとうございました。(1/1) 新年おめでとうございます。 この度ブロ…
春霜堂@ Re[1]:10・27時点での衆議院選分析予測(10/28) 大江戸ユーチューブ男さん >ご無沙汰して…
大江戸ユーチューブ男@ Re:10・27時点での衆議院選分析予測(10/28) ご無沙汰しております。その後おからだの…
春霜堂@ Re[1]:衆議院選・大胆予測(08/19) 大江戸ユーチューブ男さん >大阪維新、伸…

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 倉成竜渚


東久世通禧 1833-1912 政治家 254ht


九鬼隆一 1850-1931 駐米公使 181ht


元田肇 1858-1938 政治家 80ht


若槻礼次郎 1866-1949 総理大臣 3667ht


林銑十郎 1876~1943 総理大臣 1968ht


渡邊錠太郎 1874~1936 陸軍大将 265ht


巌谷小波 1870~1933 童話作家 4308ht


芳川顕正 1841-1920 明治の元勲 148ht


橋本海関 1854~1935 明石藩の儒者


東郷平八郎 1847-1934 連合艦隊司令長官


乃木希典 1849-1912 陸軍大将 8153ht


武藤山治 1867-1934 実業家、政治家


頭山満 1855~1944 国家主義者 4350ht


清瀬一郎 東京裁判の弁護士


中井竹山 儒学者 1730-1804 330ht


細井広沢 儒者、書家 1675~1753 149ht


高橋三吉 海軍大将 1882-1966 101ht


河野秋邨 日本画家 1890 - 1987 18ht


三上参次 歴史学者 1865~1939 204ht


高杉晋作 倒幕の志士 1839-1867 34511ht


森田節齋 1811-1868 維新の志士 77ht


岡本黄石 1811~98 書家 漢詩人 47ht


増田龍雨 俳人 1874-1934 45ht


細井平州 儒学者 1728-1801 124ht


祇園南海 儒学者、画家 1678~1751 136ht


皇女和宮 悲劇の皇女 1846-1878 3914ht


西園寺公望 首相 元老 1849-1940 5050ht


加藤桜老 儒学者 1811-1884 16ht


橋本関雪 日本画家 1882-1945 5700ht


内田 良平 国家主義者 1874ー1937


長三州 書家、儒者 1833-1895


橋本凝胤 薬師寺管長


清水公照 東大寺別当 1911-1999


福田眉仙 相生出の日本画家 1875 - 1963


森崎伯霊 姫路出の日本画家 1899-1992


奥山武寛  姫路在住の日本画家


清浦奎吾 首相 1850-1942


尾崎咢堂(行雄)


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2011年12月14日
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テーマ:温故知新(104)
カテゴリ:赤穂義士伝


赤穂義士と姫路は何かと縁が深い。

あの赤穂四十七士の生き残り、寺坂吉右衛門も本懐後は姫路に長くいたということである。

先日、自ら育てた大根を下さった大石さんは、離縁されて豊岡に行かれていた大石りくの末裔にあたられる。やはり、りくを彷彿とされるような清廉で懐の深さを持っておられる方でもある。

それやこれやで、僕は子供の頃から赤穂義士の心酔者で、赤穂義士、吉田松陰、乃木大将系譜が大好きなのである。そして、自分なりに色々な資料も集めていたりもする。

内蔵助は普段は「昼行灯」のあだ名そのままの人であったそうだが、一旦緩急あれば、とても的確な信じられないような決断が下される人物であったという。

実録赤穂事件

赤穂義士には色々なエピソードが残っているが、あの討ち入りの後、吉良義央の首級を槍の穂先に付けて江戸市中を行進し、浅野長矩の墓がある泉岳寺へ引き揚げ、義央の首級を亡き主君の墓前に供えたとあるが、その行進中の首級は偽物で、本物は、取り返しに来るのに備えて、陸路を避けて海路を秘密裏に運ばれたのだそうだ。

この辺、内蔵助の用意周到振りがうかがわれる。

また、この時、泉岳寺への引き揚げの途、礒貝正久の母が往路にあり病床に臥せっておることを知る大石内蔵助が、「泉岳寺に入ると後はどうなるか分らない。母の病気見舞をしてはどうか」と勧めたが、これを正久は次のように言い固辞したといわれる。

「私は死を決意して母に別れを告げて参りました。今も見舞いたい気持ちはやまやまなれど、もし、母を見舞に行っている間に上杉の追手が来て、一戦交えるようなことでもあれば、終世の名折れとなります。かたじけございませんが、このまま泉岳寺まで行かせていただきたい。」

この時、正久まだ24歳の青年であった。


☆   大石良雄の辞世の句

あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし








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Last updated  2011年12月18日 16時36分55秒
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