迫水久常「機関銃下の首相官邸」
迫水久常「機関銃下の首相官邸」(恒文社・昭和39年)二・二六事件時に岡田啓介総理の首相秘書官を務め、終戦時に鈴木貫太郎総理の内閣書記官を務めた官僚・迫水氏の戦争回想録。控え目で客観的な文体が、実に官僚的だと感じる一冊だ。迫水氏の名前は、東京裁判や大東亜戦争を扱った本にはよく出てくる。氏は玉音放送の放送準備と、二・二六事件での岡田総理の救出劇で有名だ。氏は「迫」という字が付く人に多いように、鹿児島出身である。「薩の海軍、長の陸軍」と呼ばれたように、子供の頃から軍隊と縁がある家庭に育ったが、軍人は目指さず、官吏の道を目指した。先に「岡田啓介回顧録」を読んでいたので、迫水氏が岡田総理の娘婿だということは知っていた。「回顧録」を読むと、二・二六事件がいかに大きな事件だったかが、政府首脳の立場からよく分かった。そして、次は官僚の立場からである。どういう書き方をしているのだろうかと、興味を持ってページを開くと…。なんと、始まって80ページの間、ずっと岡田首相の救出劇を扱っている。分刻みのドキュメント・ノベルのようである。ロンドン海軍軍縮条約の路線を守っていた海軍大将の岡田首相は、陸軍から「統帥権干犯」の元凶だと目の敵にされ、二・二六事件の襲撃目標の筆頭に挙げられた。鈴木貫太郎大将は重症を負い、渡辺錠太郎教育総監、高橋是清蔵相、斉藤実内相は即死であった。岡田首相も「即死」と伝えられた。これら五人の首脳のうち、三人は海軍出身である。しかも、鈴木、斉藤、岡田の各氏は昭和天皇の側近でもあった。だが、岡田首相は生き延びていた。射殺されたのは、首相の義弟で、首相の家に住み込んで秘書として働いていた松尾伝蔵大佐だった。青年将校たちは、岡田首相の顔を詳しく知らなかったので、年恰好も近かった松尾大佐を首相本人と誤認し、「目的達成」と見なしたのだが、首相は実は、押入れの中に隠れていた。この間、約2日半。首相の娘婿でもあり、陸海軍の事情にも詳しい迫水氏は、戒厳令の敷かれた東京中枢で、どうやって首相を救出するか、あらん限りの知恵を絞って策を練ってゆく。その描写だけで、80ページ近くもある。青年将校側の視点で政府首脳を襲撃したルポ、手記は数多く読んできたのだが、政府側から見た青年将校たちの振る舞いは、粗野で、一方的で、無計画ぶりが目立つ。真崎甚三郎、荒木貞夫、小磯国昭、山下奉文らの陸軍首脳の態度ときたら、まるで他人事のようにそっけないものである。同じ事件でも、青年将校、政府首脳、官僚、陸軍、海軍、運動家、一般国民の7つの立場で読んでいくと、いかにも複雑だ。これがたった4日間の事件だというのだから、近現代史の全ての事件、日付、人物などを想像上に復元していくのは、一生かかっても無理そうである。それにしても、これまで無数の文献を読んできて、終始一貫した方針、姿勢を貫いているのは、昭和天皇ただお一人だけであったのがよく分かる。読めば読むほど、昭和天皇がおられなかったら、日本は本当に1945年で消滅していたと思わずにはいられない。東京裁判は7人の被告を「A級戦犯」で処刑したが、その罪状は「共同謀議の罪」であった。だが、パール判事も指摘したように、それは全くの嘘である。大東亜戦争ならずとも、二・二六事件関係だけでも20冊程度の本を読んでみれば、皮肉ではあるが、当時の日本政府が、せめて共同謀議でもできたらどれだけよかっただろうか、と誰でも思うのではないだろうか。当時の日本政府には、統一的な国家目標も、判断基準も、国益の共通認識も全くない。そして、イマドキの言葉で言えば、「コミュニケーション」も全く行なわれていない。よく、こんな事件の数年後に本格的な大戦争の準備を始められたものだと驚いてしまう。数年おきに大事件が起こって、別の国になるほど政府の方針がクルクル変わった近代日本の歩みを概観して、逆説的ながら、国家統合の中心がある国は本当に幸せだと感じる。今年は「北京オリンピック」だ。再来年は「上海万博」である。この二つのイベントが終われば、中国は世界に遠慮する必要がなくなる。ロシアはプーチン王朝の基盤整備が進んでいる。韓国は親北朝鮮のノ・ムヒョン左派政権から、親米の李明博保守政権にシフトした。アメリカの相対的影響力は低下し、ブッシュ政権の対中強硬派は全て退陣して、アメリカさえ中国の顔色を窺うようになって、日本軽視が進んでいる。そしてわが日本は、少子高齢化で経済が失速しかけ、国際競争力も年々低下し、国民も自信を喪失しつつある。これは…。およそ100年前の東アジア情勢と、なんと似ていることだろうか。日露戦争の敗戦とロシア革命の苦しみから立ち直り、東洋の覇権を目指し始めたソ連。辛亥革命で清朝を滅ぼし、国家統合を目指してナショナリズムが高まり始めた中国。水面下で中、ソ、米、日との駆け引きを進めていた朝鮮。極東の権益を確保するため、中国との関係を強め始めたアメリカ。そして、1,000万とも呼ばれる余剰人口を抱え、食糧確保と国防のため、満州に新天地を求め始めた日本。今、各国の若者は自国の未来をどう見ているだろうか?ロシアは、プーチン首相のカリスマ性が強い人気を集めているようだ。中国は、長野での聖火リレーの通りである。韓国は、「強盛大国」を目指している。北朝鮮は、謎である。アメリカは、世界の覇権国家の座を維持しようとぬかりない。して、わが日本の若者は…。近現代の歴史を知らない若者に、まともな夢が持てるわけもないだろう。そして、私には、何ができるのだろうか?今まで何度、こういう自問自答を繰り返してきたことだろう。答えはいつも必ず、「職業教育、経済教育、歴史教育しかない」というところに立ち返る。若者の想像力こそ、国家最大の財産なのだから。