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2006.09.18
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変身願望
宮原浩二郎『変身願望』
~ちくま新書、1999年~

 数年ぶりの再読です。
 本書の特徴として、「なりたい願望」と「変わりたい願望」を区別していること、これと関連して、変身は「快楽」を伴うものであって、たとえ現状より悪いものに変身することになっても、その変身にはなんらかの「快楽」が伴うということ、そして、ニーチェの永遠回帰の思想と変身を結びつけて考えていることが挙げられます。著者自身指摘しておられますが、悪いものへの変身にも「快楽」が伴うというのはなかなか受け入れにくい考え方ですが、筆者はそれを本論での思考の前提としているので、どこか気持ち悪さが残りました。ニーチェの思想と結びつける際に使われている、「思考の実験」という表現で納得して読まないと気持ち悪いままです。
 以下、簡単に紹介を。

「第一章 変身する」
 ここでは文字通り、「変身」とは何か、ということが語られます。
(1)一般に変身には上昇志向的なニュアンスがあります。ここで、「成りたい願望」と「変わりたい願望」の区別が指摘されます。言い換えると、変身の結果に対する願望と、変身そのものへの願望の区別です。
(2)変身は、唐突さという要素をもつ、ということ。『OL進化論』の課長さんの息子さんが考えたように、一ヶ月少しずつ髪を染めて、いつの間にか茶髪になってみたい、というのは、ここで言う変身にはあたらないことになります。
(3)変身は、人に驚異を感じさせる奇跡的な要素をもつものもある、ということ。カフカ『変身』のように、芋虫に変わってしまうとか、千と千尋みたいに両親が豚になるとか、結果はいやなものです。しかし、「その変化の鮮やかさを目にして驚嘆の情に打たれるはず」(28頁) だというのですね。このあたり、思考の前提が違うので、割り切らないとしんどかったです。
(4)たとえ負の結果をもつとしても、変身がもつ魅力とはなにか。それは、「自己同一性の侵犯」への魅力というのですね。変身は「その結果がどうあれ、深い快楽を伴う『無意識的に望まれる』事態と考える必要がある」(32頁)というのは、だから納得でした。「成りたい願望」は、同一性の侵犯よりも、変身の結果得られる自己の同一性の獲得を目指している、ということで、あらためて二つの願望の差異が指摘されています。

「第二章 躁鬱という変身」
 ここでは、躁状態の人格を「マックス」、鬱状態の人格を「ミニー」と名付け、両者の性格が指摘されますが、ここでは省略します。躁鬱変身はそれ自体社会的な現象であるとし、以下の三点について検討されます(メモの意味もこめて、少し詳しく書きます)。
(1)幼児的万能感。幼児は、いわば小さな王様で、快感をえるためには我慢をせず、なんでもできると感じている、といいます。これが幼児的万能感です。この感覚は、次第に社会的に規制されていきますが(行動能力のある大人がこうした行動をとると社会的に危険なため)、躁鬱者はこの感覚を保持している、といいます。「完全でありたい」「強くありたい」、こうした理想に照らして、ミニーは自分はだめな人間だという思いに苛まれ、マックスは自分はそうした理想を備えた人間だと考えます。
 親が子供の欲求をかなえていけば、幼児的万能感は保持されます。親が子供を王様として扱うと、子供は親の期待に添っている限り、「赤ん坊陛下」(フロイトの言葉だそうです)であり続けられる。マックスはこの「赤ん坊陛下」が表面に現れた状態、ミニーは「赤ん坊陛下」の要求についていけなくなった状態というのです。
(2)役割距離。人間は社会の中で様々な役割をもち、たとえばある男性なら、父親として、課長として、日本人として……と、様々な顔を使い分けます。こうした役割に応じた顔を持つのが苦手、というのです。
 ここで興味深かったのは、社会的役割と自分の区分が苦手という場合の二つのパターンです。
(a)社会的役割が自分を食ってしまう場合。たとえばある営業部長。彼はいつでも営業部長であり、彼が仕事で失敗した場合、自分自身がだめな人間だと考えてしまいます。これがミニーの場合。
(b)自分が社会的役割を食ってしまう場合。彼はどこにいても「俺」であり、営業部長としての自分に社員がついてくるのではなく、自分が偉いから人がついてくる、と考えます。これがマックスの場合です。
 バランスがよいのは、社員をクビにしなければならないけれども、それは自分が偉いからではなく、自分もそんなことはしたくないのだけれど、部長としての立場上やむをえませんよ、というスタンスです。マックスとミニーには、そういうスタンスが苦手というのです。
(3)祝祭衝動。ここでは、躁状態になるきっかけとして、祭のみならず、葬式を指摘しているのが興味深かったです。「葬式躁病」と呼ばれるそうです。人は、死を恐れながら生きています。しかし、身近な人(あるいは、有名人など)の死をきっかけに、死のあっけなさを認識し、より強力な生へと誘惑される、いわば死をもてあそぶように生きる、というのです。

「第三章 ポストモダンと変身礼賛」
 この章も興味深かったです。「マイ・ウェイ」、谷村新司さんの「昴」、ミスター・チルドレンの「Tomorrow Never Knows」の歌詞を検討して、個人の一貫性の肯定(変身の否定)という価値観重視から、変身礼賛的な生き方の強調への変遷を指摘しています。「堅固な中心をもち、未来へ向けて進歩・発展しようとする近代的自己から、中心を定めることを回避し、現在のなかに浮遊しようとするポストモダン的自己へ」(75頁)の変遷です。歌詞の検討からそれを指摘しているのが面白いですね。
 次いで、森村進氏が提唱した人格の「程度説」が紹介されます。いまの自分は、過去の自分と異なる価値観をもっている。この二者の自分は、ぞれぞれ別の人格を持っている、というのが程度説です(反対に、両者は一貫した人格とするのが原子説です)。この立場にたつと、将来の自分はいまの自分とは異なる人格になっていることになります。いまの自分にとっての利益が、将来の自分には不利益になるかもしれない。というんで、将来の利害を軽視し、生き方が現在中心にシフトする、というのですね。

「第四章 忘却と記憶」
 この章も興味深かったです。ここでは、忘却と記憶がそれぞれ二種類に分類され、それら四種類の組み合わせにより、人格の類型化を試みています。
 忘却は、(a)受動的忘却と(b)能動的忘却に分けられます。ただ惰性で忘れてしまうのが(a)、自己にとって不利益な記憶を積極的に抑止するのが(b)です。
 記憶も、(c)受動的記憶と(d)能動的記憶に分けられます。ひどい苦痛や屈辱のために忘れられないのが(c)、自己が「一旦意欲したことをいつまでも継続しようとする意欲」(115頁)による記憶が(d)です。約束を守る、なんてのが(d)ですね。
 類型は、(a)と(c)を備えたのが一般的な人間(ミディと名付けられています)、(c)と(d)―とにかく記憶にしばられるのがミニー、 (a)と(b)―忘却により、未来の自己を規制する記憶すらもないのがマックス。そして、(a)から(d)を全て備えたのが「マチルド」と呼ばれる人格です。マチルドは、自己の意志で記憶することも忘却することも―つまり変身することも可能なのです。
 マチルドの具体例としてあげられているのが『源氏物語』の光源氏です。多角的な恋愛を広げることからは「能動的忘却」の力がうかがえ、しかし女性関係が減ることなく増え続けることからは「能動的記憶」がうかがえる、というのですね。このように自由に変身し、そこに明るさも備えた人を著者は「変身爛漫」な人と呼んでいます。

「第五章 永遠回帰と無限変身」
 本書の紹介の冒頭でふれた、「思考の実験」が展開されます。まず、ニーチェの生涯が紹介されます。晩年は精神崩壊のため魂の抜け殻のように生きたのですが、その直前に、彼は「あらゆる他者に変身する」境地に達していた、といいます。友人への手紙の調子から「狂気」がうかがえはじめるのですが、その中でニーチェは、自分は過去のあらゆる人でもある、ということを言っているのですね。
 次いで、ニーチェの永遠回帰の思想と著者が提唱する無限変身の思想がパラレルに語られます。が、その前に本章の最初に紹介される、岸田秀氏の指摘を紹介しましょう。岸田氏によれば、「ああすればよかったのにしなかった」と悔恨の感情をもったとき「時間の経過」という感覚が生まれ、「他人は自分ではなく、自分の思い通りにならない」と屈辱の感情をもったとき「空間の隔たり」という感覚が生まれます(136-137頁)。極論のような気もしますが、言い得て妙だとも思います。で、著者によれば、そうした「時間」による制約を突き破るのが永遠回帰の思想であり、「空間」による制約を突き破るのが無限変身なのですね。
 永遠回帰とは、あらゆる出来事が永遠に回帰する、という思想です。嫌なことも苦しいことも、嬉しいことも楽しいことも。ニーチェによれば、「この世のなげきは深い。しかし、よろこびは断腸の悲しみよりも深い」(168頁)ので、よろこびを肯定した瞬間に永遠回帰を肯定することになるのだそうです。本当かいなとも思いますが、大部分の人がこの世には苦しみが満ちていることを認識しながらそれでも生きているのですから、先の引用はいちまつの真理を指摘しているのかもしれません。しんどいときはそんなこと思いもしませんが、それでも生を断たないのは、よろこびの深さを知っているからでしょうか。
 とまれ、そんな永遠回帰を肯定できますか、「自分」は他の誰でもあるという無限変身を肯定できますか、という思考の実験が展開されるのです。

「第六章 変身願望と変身術」
 あらためて、「成りたい願望」と「変わりたい願望」についてふれられます。いずれも、「願望である以上、現状に対する否定的な気分を背景」(186頁)にしています。前者は、「いま・ここ」の自分への不満、後者は、自分が自分に押し込められていることへの不満です。簡単な変身としてイメチェンがありますが、これは後者の願望を満たそうとする行動です。別に何かに「なりたい」わけではなく、いつもの自分と変わってみたいわけですね。
 本章で興味深かったのは、名付けについて。モンゴルでは、普通の名前をつけると、その名前が魔物に知られてしまい、病気や死などにつけねらわれてしまう、という思想があるのだそうです。そこで、ネルグイ(=「名無し」)や、ヘンチビシ(=「だれでもない」)といった名前がよくつけられるのだそうです。本書の第二章などで、マックスやミニーなどと、人格に名前が与えられますが、これも自分の中の様々な人格に名前をつけることで、ある感情への変化それ自体を変身として楽しんだりコントロールしたりすることを可能にする試みだ、ということです。

 全体として。本書の中でもっとも強調されている、というか目立つのは第五章のニーチェの思想を援用する部分ですが、どこかついていけない感じでした(数年前はずいぶん揺さぶられてしまったのですが、今回はなるたけ感情移入しないように読みました)。
 第四章の記憶と忘却について、第五章の空間と時間について、第六章の名付けについて…。このあたりを興味深く読みました。





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Last updated  2006.09.18 09:24:40
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