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M17星雲の光と影

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2006.01.01
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カテゴリ:その他
 久々の自宅での正月。実家に帰らないと、旧年と新年の切断面を作るのがむずかしいが、今年は本格的に大掃除作業を挙行することで「切れ目」を作る。

 一夜明けて、正月のテーブルには、お屠蘇として(屠蘇散は入れなかったので「酒」ですね)三種類の日本酒が並ぶ。大晦日からのつきあいは普通酒の王様「鶴の友」、さらに新潟の同胞、王紋の「純米 夢」、特別ゲストとして初見参、滋賀は草津の「道灌 中汲み 純米吟醸」。この最後の酒は、中汲み、精米度45%、しぼりたて原酒という特別仕様である。さすがに馥郁とした香りで他を圧する。さすがの「夢」もかすみがちだが、「鶴」は凛とした立ち姿を崩さないところが立派。

 なに、日本酒のことを知らないとわかりづらい。う~ん、そうですね。音楽で喩えると、この三者のラインアップは、誰でも知ってるメジャーの歌い手というわけではないけれども、実力は知る人ぞ知る、つぼにはまるとほとんど無限の力を発揮するミュージシャンの揃い踏みというところですな。ハナレグミ、キリンジ、くるりのジョイントコンサートというところでしょうか。なに、ますますわかりにくい?こりゃまた失礼しました。

 閑話休題。年末の内田師の日記に対する感想から始めるのも新年にふさわしくない出だしのようだが、12月30日の日記はなかなか刺激的であり、一言感想を書いておきたくなった。この日の日記には微妙に内角近めをついてくるナチュラルシュート気味のボールを投げられた感触があったからである。おそらく多くの人は日記の「国防」という語句に反応するのだろうが、私はあえて「愛」について語りたい。

 先生は戦争遂行のためには冷厳なリアリスティックな戦略と同時に、自己を放擲してまで共同体を守ろうとする無私の精神、ないしは「愛」が必要だと説かれている。そして、わが国の自称「愛国者」には決定的に「愛」が欠乏していることを嘆いて、その日の文章を締めくくられている。

 未曾有の危機に際して身を処する方法として、「声の大きい者についていってはならない」ということを先生は繰り返し説かれている。これはほんとうにすばらしい処世の術であるとかねがね私は感服している。なによりも「内容」じゃなくて、「声量」で判断しろというところがいいですよね。ほんとうに自称「正論」家はなぜあんなに大きな胴間声でがなりたてるのか。こんなに力んでいるからにはわしはろくなことはしゃべっとらんけんね、と周囲に広報活動しているとしか思えませんね、ほんとに。

 さて、本題は愛だった、愛。愛とはなにか。愛とは本来存在していたはずのつながりにあらためて気づくことである。それは新たに生まれた関係性ではない。もともと存在していた、しかし、なんらかの理由により忘却されていた。そういう関係性にはっと気づくこと、それが愛というものではないかと私は考える。

 だから愛の対極にあるのは切断である。私は祖国のために身を捧げる。こういう考え方の根底にあるのは、自らと自らが属する祖国とをまず分離した上で、前者が後者の存在のために身を捧げるという図式である。これを愛とはいわない。こういう事象には自己犠牲ということばがふさわしい。

 いわゆる愛国的行為というものは、基本的には自を他のために捨てるという図式の中に収斂される行為であると私は考える。

 では愛とはなにか。もしも自と他の区別が存在しているとすれば、両者は分離していることになる。そして、実際にわれわれの生活はこの自他の分離の上に成り立っている。しかし、この両者の存在の根底をどこまでも遡及していくと、何代か前において必ず両者はつながっている。人間、いやもっと大きく生命体といってもよい。それらはどこまで遡るかというレベルの違いはあるにしろ、必ずどこかでつながっている。だから、「ああ、分離していたという意識でいままで生きてきたけれども、実は深いところでつながっていたんだ」という身体感覚にも近い認識をわれわれがもった時、そこにはある深い感情や情緒がともなう、それを「愛」と呼ぶのではないだろうか。

 だから、特攻隊の遺書で、自分はなんのために死ぬのかという問題が自らの意識に前景化した時、彼らはまず両親の名前を挙げる。そして擬似的な親として天皇の名を挙げる。それは遠い昔に遡って自分とつながっている存在であり、そのことを意識することが「愛」であり、この「愛」のためにだけ、人間は自らの生命を放棄することができるからだ。

 そこでは国家は出てこない。いや、たとえ出てきたとしても、それはどこかで自分とつながりのある人間にすりかえられている。国家とは近代的思想の作り上げた虚構であり、われわれはどこまでさかのぼっても、それとは「つながっていない」からだ。せいぜい擬人法の過剰包装で包みこむことによって、なんとか愛らしきものにたどりつくことができるにすぎない。

 だから「愛国」ということばには、どこか倒錯めいた不自然な力みがともなうのだ。男が女を愛する時、それはまったくはじめて出会った素晴らしい異性との出会いがもたらす感情ではない。それは「恋」である。もっといえば「恋」にすぎない。

 誰かを愛するようになったとき、相手の痛みが相手以上に自分の痛みとなり、相手の喜びが相手が感ずる以上に自分の喜びとなる。そのような内的経験の積み重ねを通して、ある日突然「人間は互いにつながっている、いやずっと前から人間同士は深い絆によってつながっていたんだ」ということに気づき、愕然とする。それが「愛」の発生である。

 だから愛ということばを国家の上に冠するのは不当表示なのである。誰も国家を愛することはできない。もちろん、その庇護のもとにあることに謝意を感じ、忠誠を誓い、義務を果たすことはできる。でも、それで十分ではないか。愛は人に向けるべき感情である。システムや機構には、それにふさわしい感情があるはずであり、そのような感情をこそ向けるべきなのである。そういう振る舞いをすることを「節度」というのではないか。

 先生の日乗の最後の一節に「ALL YOU NEED IS LOVE」の訳が挙げられている。これは「愛こそすべて」ではなく、「君に欠けてるのは愛なんだ」と訳すべきだと。

 たしかにその通り。しかし、愛国者に真実の「愛」が欠けているのはいわば必然なのだ。なぜなら、愛国ということば自体が語義矛盾をきたしているからだ。誰も国を愛という感情でつつみこむことはできない。

 「ALL YOU NEED IS LOVE」という歌を私は好まない。それはあまりに「大声」で唄われすぎていると感じられるからだ。愛もまた大きな声で語るべきものではない。ビートルズの音楽は、絢爛豪華に織りあげられたほとんど完璧なまでの完成度を誇る、しかし壮大なゴミ箱ではないかというように私には思われる。そして、そのことに痛切に気づいたのは、そのグループを主導したジョン・レノンというひとりの男だった。

 彼はそのグループとその音楽を否定し、自らの愛の歌を作りはじめる。「OH MY LOVE」「LOVE」などなど。それらの歌の中で「LOVE」ということばが、まるでこわれものをそっと手で包みこむように、小さな声でささやくように、いつくしむように唄われていることに、わたしたちは深く心をいたすべきではないだろうか。


 あけましておめでとうございます。今年があなたにとってよい年となりますように。
 





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Last updated  2006.01.01 17:36:11
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和久希世@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) >「彼はこう言いました。「それもそうだ…
kuro@ Re:「チャンドラーのある」人生(08/18) 新しいお話をお待ちしております。
あああ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 非常に面白かったです。 背筋がぞわぞわし…
クロキ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 良いお話しをありがとうございます。 泣き…
М17星雲の光と影@ Re[1]:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) まずしい感想をありがとうございました。 …
映画見直してみると@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 伊集院がトイレでは拳銃を腰にさして準備…
いい話ですね@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 最近たまたま伊丹作品の「マルタイの女」…
山下陽光@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) ブログを読んで、 ワクワクがたまらなくな…
ににに@ Re:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) 文句を言うだけの人っているもんですね ま…
tanabotaturisan@ Re:WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW(07/01) キャロルキングの訳詩ありがとうございま…

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