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カテゴリ:文章論
世の中にある文章は大きく二つに分けることができる。読んだ人間に文章を書かせる文章と、そうではない文章の二つに。
ほとんどの文章は後者に属する。もちろんそこには凡庸きわまりないリンゴジュースのしぼりかすのそのまたしぼりかすのような文章も入る。でも、読んだ人間に文章を書かせないからといって、それがそのまま感動を与えない文章というのではない。十分な感動と余韻を読む者に与え、なおかつその後、読み手に文章を書かせない文章もある。むしろそちらのほうが多いだろう。 きわめて個人的なことになるが、私の考える名文家は、たとえば吉田秀和氏(先生、長生きしてくださいね)。いまから20年ほど前になるか、私は朝晩の通勤電車の中でひたすら吉田氏の音楽評論を読みふけっていた。しまいには、文章の意味ではなく、その読点の息づかいを味わい、堪能していた。その絶妙な読点にあわせて呼吸し、文章の息づかいを味わったものである。でも、だからといって、その後自分で何かを書こうとは思わなかった。 それから5、6年後には、ひたすら河合隼雄氏の著作に読みふけった。名著「ユング心理学入門」(培風館)に接してから、個人的、内面的事情もあり、行き帰りの電車の中で彼の著作に没頭した。そして、そこから多くのことを学んだ。その中でも随一といってもよい著作「明恵 夢を生きる」では、その後の人生の預言までいただいた。しかし、その後、私が何かを書くことはなかった。そんなことは思いもしなかった。 もちろん他人の文章を読んで、自分で何かを書こうとする時、そこにはさまざまな要因が関与するだろう。自分の体験、置かれた状況、年齢、文章を書く力量、文章に対する感受性、時間的余裕などなど。そこにはありとあらゆる個人的、内面的および外面的変数がからみあい、とてもではないが安易な一般化など許さない。でも、そのような個人的要因を超えて、たしかに「読む者に文章を書かせる力をもった文章の書き手」というものが存在するのだ。 私にとってはそういう書き手は二人存在している。もって回った言い方はよそう。その二人とは内田樹先生(先生、お元気ですか、勝手に弟子を僭称しております)と村上春樹氏である。 しかし、不思議である。良い文章というものを私なりにイメージすることはできる。言語の運動法則にのっとった無理のない、むだのない合法則的で明晰、明快なことばの軌跡。でも、たとえそういう文章であったとしても、それはさらに「読んで感心。ひたすら感銘」というタイプと、「読んでむらむら、自分でも何か書かねば」というタイプに分かれるのである。 その分岐点となるものは何か。 私は自分に文章を書かせる書き手を頭の中にイメージしてみる。活字の向こうにその文章を書いた(打った)人間の指の動きを想像してみる。そして、その指からすこしずつ神経の中枢へと遡ってみる。その人間の中にはいったい何が存在しているのか、その人間の何が、仕事を終えてくたくたに疲れて帰宅して、寝転がってテレビでも見てればいいものを、寒い個室にこもってキーボードを叩かせているのか、そのことを考えてみる。 ぼんやりと書き手のイメージが浮かんでくる。はっきりとした像を結ぶことはできない。ピントはぼやけ、その映像は白い靄に包まれている。私は想像の視界の中で眼をこらす。なんとかその書き手の姿を見きわめようと眼を細めてみる。でも想像力の分解能は低く、輪郭はぼやけたままである。 でもひとつだけわかることがある。それはその像がどうやら「ひとりではない」ということだ。確信はないけれども、どうもそこにはぼんやりとした人間の影がふたつ見える。なぜだろう。私に文章を書かせる人間の像は一人ではなく、どうも二人いるようなのだ。 私はさらに目を凝らす。せっせと文章を書いている当の本人ではなく、その横にたたずんでいるもう一人のぼんやりとした影になんとか焦点を合わせようとする。よくわからない。はっきりとは見えない。でも確かにその横にはもう一人の人物がたたずんでいるのである。 その人物は体温は少し低めである。表情はあまり豊かではない。文章を書いている人間よりも、顔つきが少し鋭い。受ける印象は冷たい。非社交的といってもいいかもしれない。でも、高圧的ではない。彼は書き手の耳元で小さな声でそっとささやきかけている。けっして叱責ではない。かといってあたたかい励ましでもないようだ。彼は監視しているわけではない。どちらかといえば見守っているというほうがふさわしい。書き手との親密な雰囲気を保ちながら、しかし、その文章の練度が一定水準を下回ることがないように常に心を配っている。大きな声ではなく、ささやくような小さな声で彼は内面のつぶやきをそっと書き手に伝える。「それでほんとにいいのかい。もっといいことばがあるんじゃないかな。どんなことばって聞かれてもわからない。ただふとそんな気がしただけだよ。自分の書く文章だから、自分で探しなよ。でも、おそらくもっといいことばが、いい表現が、君の頭の中に浮かぶはずだよ。自分を信頼することさえできればね。え、私が誰かって。さあ、よくわからないけど。おそらくは君とこの世界で一番親密な関係にある誰かじゃないかな」 書き手である彼は、そう呟く誰かの声にすなおにうなずいて、さっき書いた文章を推敲する。何度も何度もあきるほどに。 書き手のそばにいるそのもう一人の誰かを何と呼んだらいいのだろう。誤解を恐れず、僭越を顧みず、その人物に命名するとすれば、そして、それが漢字三文字の名前だとするならば、私は頭を掻きながらこう答えるだろうか。「批評家」と。 その彼が、ふと振り向いて私に向かってこういうのである。「お前も少しものを書いてみれば?『たいして才能はない』って?そんなことわかってるよ。でもさ、とっても暇で、暇で暇で、暇をもてあまして何にもすることがなくって、あくびしすぎて顎がはずれそうになったときには、ひょっとするとおまえさんのそばにきて、『えっと、そのことばづかいはどうだろう。もうちょっとちがう言い方があるんじゃないだろうか』っていってあげられるかもしれない。もちろん保証も、約束もしてはあげられないよ。だって、おいらはいそがしいんだもん。あっちこっちの文章書いてる奴らの面倒みるので大変なんだもん。でも、おまえに修練と鍛錬と努力を厭わない気持ちがあるのなら、気が向いたらたまには来てあげるかもしれない。あんまり期待されても困るけどね」 そういうささやきかけが、ある種の文章の背後からは聞こえてくるのである。もちろんしこたま酒を飲んで正気を失っている時に限られるけれども。その文章の書き手が内田樹先生と村上春樹氏だということだけは、私にははっきりとわかる。今日言いたいことはそれだけだ。 人に文章を書かせる文章。その文章を読むと、こころの中の共鳴板がかすかに振動を始め、それが微弱電流を惹起させ、それがシナップスを次々と渡っていき、ついには指先に指令を伝え、カタカタとキーボードを叩かせる。 そういう文章を日々紡ぎだしてくれる中枢の持ち主、内田樹先生と村上春樹くん(いきなりためぐちかよ)に感謝します。お二人の大きな樹の陰で小さなやすらぎのひとときを与えられている一人の人間として。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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