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テーマ:旅のあれこれ(10090)
カテゴリ:その他
月曜日、短い夏休みの中日を利用して鎌倉へ行く。
湘南新宿ラインという奇妙な名前の路線を使うと、大宮から北鎌倉までの所要時間は一時間半を切る。便利な世の中になったものよのう、と思う間もなく、例の停電騒動で埼京線がストップ。その利用客がどっとこちらに押し寄せて、休み気分はふっとび、超満員の通勤電車状態となる。お盆だというのに日本人はみな働き者である。 電車は大幅に遅れ、10時半頃に北鎌倉に到着。まずは駅の直近にある円覚寺を訪ねる。夏休み中であり、交通の便もいいので観光客が多い。心頭滅却して彼らの存在を頭の中から消去すると、この寺がかなり精神性の高い作りになっていることがわかる。あやふやな記憶では、ここは文永の役、弘安の役という二度の元寇による戦没者の慰霊のために造営された寺であり、日元双方の戦死者が祀られている。13世紀の東国の政治的リーダーは敵国の侵略者の魂もまた丁重に弔っていたことに思いをいたし、21世紀の為政者の浅慮浅薄さをあらためて思う。 鎌倉という土地は、それまで京という一極を中心として形成されていた同心円状の日本社会に、もうひとつの焦点を作り出した場所ではなかったかと思う。鎌倉の存在によって京都は始めて「西」になった。それまでは京都こそが中心で鎌倉は「関」の東、すなわち「関東」の地であったが、武力による政治的権力の奪取により、鎌倉はもうひとつの日本の中心となり、その結果、京都は「関」の西、すなわち「関西」と意識されるようになる。おそらくはそれまで自分たちを「関東」と呼び慣わしてきた京都の貴族に対して、「今や、おまえたちこそが『関西』の住人なのだ」と東国の野人が叫んだ語気がこのことばの背後に感じとれる。「関東」「関西」ということばにはかすかに蔑称のひびきがこめられているようである。 円覚寺もそうだが、鎌倉の寺院は見る者にどこか無骨で武張った印象を与える。京の権力がその背後にほとんど自然力のような長年月の蓄積をもつのに対して、鎌倉の権力はもっと剥き出しで人為的で荒々しい。天を衝くような杉林を白刃でばっさばっさと薙ぎ倒し、その後に作られた建築物という感じが今もなお残っている。切り開かれた石の道のごつごつとした断面や、鋭く上方に反った屋根の先端などを見ても、そう感じられる。京に憧れ、京を作ろうと思いながら、そこには自ずと野性的な開墾の精神が顔をのぞかせているようである。 円覚寺の山門こそはあの漱石の「門」に描かれた「山門」である。それを目的としたわけではないのだが、自然の導きでそういうことになった。京都の南禅寺の壮大な門に比べると、この門は意外なほど小振りである。しかし、この寺のはずれには漱石が参禅したという帰源院がある。これはまた次回のお楽しみにとっておくことにする。なにしろ「門」を読んでいた時の気分と、今の気分はずいぶん違う。また修行僧の気分に近くなった時に訪れることにしよう。 にわか雨が降り始める中、線路を越えて東慶寺へ。ここは雨の似合うおだやかで曲線的、女性的な寺である。近くの森の上方からはさかんにひぐらしの声が地上へと降り注ぐ。 ひぐらしのひびきかすめて雨の落つ という駄句をひねる。 ひぐらしのかすみとなりてあめのおつ のほうがいいかな。 ひぐらしのかすみあつめてあめのおつ のほうがいいかも。といいかげんな俳句をひねりまくるが、まあ、たいしたことはありませんな。なんというか、凡庸で飛躍がない。「詩情というものは学んで得ることはできませんか」と父、露伴に尋ねた若き日の幸田文のことばを思い出す。たぶんむりなんだろうな。おそらく詩情とは谷の湧き水のように自ずからほとばしりでるものに違いない。 軽い昼食をすませた後、葛原が岡神社の脇を通って海蔵寺を目指すが、ハイキングコースを曲がり損ねて延々と山道を歩くことになる。結局、源氏山公園の手前から東進して化粧坂(けわいざか)切り通しを下り、海蔵寺へ大回りして到着。 しかし、そこへ辿り着くまでの山道は狭く、細く、予測のつかないジェットコースター的小道であった。これは自然に切り開かれた道ではない。そういう自然さはどこにも見られない。これはあくまでも人為的な道である。しかし、かといって人工的なものにしてはあまりにも歩きにくい。なんといえばいいか、「先が見えない」道が延々と続くので、実際の行路の難しさ以上に、精神的に疲れる。紛れもなく人間が作ったものでありながら、この道がこれほど歩く人を疲れさせるのはなぜか。 そう考えて、ふとあることに思い当たる。そうか、これは道ではなくてかつての戦場だったのだ。この道は歩き慣れればそれほど歩きにくい行路ではない。しかし、初めての人間にはとにかく精神的な負担を強いる。そういう道である。細い道が右と左に均等に分かれ、どちらを選んでもいいように見えるが、実は正解はひとつ。そういう作りの道が多い。つまり、次々と選択肢が目の前に出現し、正解はひとつしかない。そういう意図で作られているように感じる。 つまり、ここはかつて鎌倉幕府全盛の頃、外敵を防ぎ、その勢力を殲滅する戦場だったのだ。誤りの選択肢の先にはおそらく弓矢を構えた軍勢が息を凝らしてじっと敵の出現を待ち受けていたのだろう。新田義貞もここでずいぶん苦労したにちがいない。ここは外敵を防ぎ止め、一気にその勢力を殲滅するために周到に工夫された要塞の道なのである。その名残が観光ルートとなった今でもそこかしこに感じとれる。鎌倉の兵はベトコン兵であったのだ、というような浮世離れした感慨を催しながら、化粧坂の不揃いの石段を足をすべらせないように慎重に歩きつつ、ついに目的地である海蔵寺にたどりつく。 しかし、この寺のすばらしいこと。とにかく騒々しい観光客は一人もいない。山門前の石段には左右両側から萩がうっそうと繁っており、手でかき分けなければ前へ進めないほどである。周囲は整然と清掃がなされているのに、この萩のむぐらだけは手つかずに放置されている。この寺はまるで文人のはなれのようにひっそりとしたたたずまいの中におだやかな小世界を現出している。初めて来たのに懐かしい。初めて来たのにこれから何度も足を運ぶ自分の姿が思い描かれる。そういう場所である。ふと京都の詩仙堂を思い起こす。時を忘れ、思いを過去へ、未来へと自在に飛ばすことを可能にする空間がここにある。 以上、とりとめのない鎌倉雑記でありました。しかし、帰りの道々で感じたのは、よくぞこれだけのものを、これだけ都心に近い場所で「保存」しておいてくれたということである。保存というと単に昔のものをそのままとっておけばいいと思いがちだが、けっしてそうではない。未来に対する明るい見通しと、過去に対する確かな評価軸と、世俗の圧力に屈しない強い意志の力がなければ、それをなしとげることはできない。「保存」とはそれほどの難事業なのである。そのことは今の日本の街々のたたずまいを一瞥すればよくわかる。未来への見通しを欠き、過去への評価軸をもたず、現在への無原則な屈服を繰り返した結果、私たちの生きる場所がどういうものに成り果ててしまったか。その悲しい実例を私たちはあらゆる場所に見てとることができる。 私たちが鎌倉に学ぶべきものはまだまだたくさんある。 それが今回の鎌倉行を終えての率直な感想でありました。 おしまい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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