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M17星雲の光と影

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2006.10.14
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カテゴリ:その他
あれはいつ頃のことだったろうか。今の職場に勤め始めてから3年くらいたった時だったように思う。いまからおよそ18年も前の話である。ある日、一人の生徒が質問にやってきた。

質問といっても私がその時直接教えていた生徒ではない。私の職場は基本的には誰でも質問に来ることができる。大学受験の教科内容の質問であれば、一通りのことは引き受けることになっている。しかも入って2~3年の新人にとっては、現代文、古文、漢文、小論文、あらゆる質問を受けることが勉強でもあり、同時に勤めでもある。

たまたま入り口のカウンターの近くで作業をしていた私に向かって、比較的長身の青年が「あのー」と語りかけてきた。

「はい、なんでしょう」
「ちょっと質問があるんですけど」
「はい、科目は」
「小論文なんですけど」
「ええ、いいですよ。添削してほしいとかそういうこと?」
「いえ、そうじゃないんです。私、原宿校の生徒なんですけど、このあいだ始めて小論文の模試を受けたんです」
「はい」
「それで今日答案が返却されたんですけど、それについてちょっと聞きたいことがあるんです」
「ああ、添削内容が納得行かないとか、計算ミスがあるとか、そういうことですか」
「いえ、ちがうんです」
「ちがう?」
「ええ、ちょっとだけボクの小論みてほしいんです」
「それは、まあかまいませんけど」
「実は自分が予想してたよりもずっと評価が高いんです。それでこれはちょっと高すぎるんじゃないかと思ったんです。で、すいませんが、ボクの文章を読んで、この評価がまちがっていないかどうか、みてもらおうと思って」

変わった質問である。添削へのクレームとか、採点ミスへの文句ならば日常茶飯事だ。しかし、評価が高すぎるのではないかといってくる生徒はほとんどいない。質問する相手は誰でもよかったのだろうが、たまたま私が近くにいたので、声をかけたという感じだった。

私はその生徒の小論文を読み始めた。文章を読みながら、自然に微笑みがわきあがってくるのを押さえるのに苦労した。それはとにかく「まっすぐ」な文章だった。彼はおそらく読書の習慣もなく、文章を書く習慣ももっていなかったのだろう。とにかく自分の思いがこれ以上ないほど素朴にまっすぐにそこには述べられていた。いまどきこんな素直な文章を書く若者に出会うことはまれである。私はいっぺんでその文章の書き手に好意を抱くようになった。おそらくその答案を採点した添削者も同じ思いだったのだろう。そこには破格ともいえるほど高い評価がつけられていた。

「いや、評価はおかしくないな。私の評価もこの添削者とほとんど同じだよ」
「そーですか。おかしいなー。ボク、文章下手でしょう。小論文なんかほとんど気まぐれで書いたんです。それでこんな評価もらえるなんてとても意外で。他の科目の点数なんかぜんぜん低いんですから」
「文章には、それを書いた人間の力が出るんだよ。私もたしかにこの文章が完成度が高いとか、テクニックがあるとは思わない。でも、少なくともこの文章を書いた人間にはある種の力とエネルギーが宿っている。その力を添削官は高く評価したんだろうし、私もその力を高く評価する。だから、この答案の点数はまちがってないよ。」

その青年はまっすぐな視線で私の顔を見つめ返して、こう言った。

「あのー、先生、お名前をうかがってもいいですか」
「ああ、いいよ、○○っていうんだ。専門は現代文だけど、今年から小論文も教えることになった。」
「お願いがあるんですけど、ボクの小論文を見てもらうことってできますか。」
「ああ、いいよ、べつに。でも小論文で受験するの?」
「ええ、早稲田の一文か、立教の文Bに行きたいんです。よろしくおねがいします。」

まっすぐな視線とまっすぐなことばでそういわれて誰がことわることができるだろう。まあ、そういう生徒はたくさんいるけれど、長続きする人間はほとんどいない。私はそう思って、軽く承諾の返事をした。

しかし、その青年は一週間に一回、一度も欠かすことなく私のところへやってきた。早稲田や立教の過去問を問いてやってくるのだが、その文章の内容は不思議なことにほとんど同じだった。

そこには今の日本社会への怒りがこもっていた。ルールを守らない、エゴむきだしで他人のことを考えない身勝手な人間に対する憤りがそこには強く表現されていた。そして、自分の憧れの人の名前がいつも同じような場所に、同じような文脈で書かれていた。

「三浦和義って、あのロス疑惑の人じゃないの?」
「いやだな、先生違いますよ。ボクが書いてるのはサッカーの三浦和良、先生、知りません?ブラジルに単身で渡り、現地のチームでレギュラーになった三浦和良。ボクの憧れの人なんです。」
「知らないなー、そんな人」

当時はまだJリーグも始まっていない。Jリーグ創設はそれからおよそ4年後のことである。元旦の天皇杯しかサッカーを見ない人間がそんな人間のことを知っているはずもない。でもその青年は、ミウラカズヨシ選手のことを何度も何度も手放しで賞賛する文章を書き続けた。

彼への指導はとても面白かった。でも話は小論文からすぐにそれ、「人間、いかに生きるべきか」という話題になった。そして、喧々囂々、現在の日本社会の問題点を糾弾し、人としての生き方に関するディスカッションに発展する。たいへん面白い話ではあるのだが、しかし、なかなか大学受験の小論文の話に着地しない。楽しいことは楽しいんだけど、いいのかなー、これで、というのが、私の正直な感想だった。

いつしか彼との話はもう一人の憧れの人、沢木耕太郎の話題へと移っていく。「一瞬の夏」の話。私はその作品の中心人物、カシアス内藤のことはよく知っていた。小学校の頃から「ダイヤモンド・グローブ」を欠かさず見ていた私は、彼の抜群のボクシングセンスと、ロープ際に追いつめてもけっしてとどめを刺すことのできない彼のこころの弱さを自分の目で見ていた。自然、話はボクシングに流れ、スポーツノンフィクションに流れた。

おそらくこういう受験指導は誤っていたのだと思う。でも私は若かったし、彼はもっと若く、しかも情熱的だった。あのエネルギーを大学受験などという小さな枠に押し込めることは所詮無理だったのだ。今となってはそう思う。

結局、彼は早稲田にも立教にも受からず、ある私立大学に通うことになった。

しかし、彼は大学を休学し、自費でアルゼンチンに単身サッカー留学することを決意する。しかし、当地で回りの選手のレベルの高さに愕然として、自らの夢を断念。日本に帰国後、ボクシングジムに通い、プロテスト合格を目指す。念願のプロテストに合格した直後、彼はひじを痛め、ボクサーとしての道を断念することになる。

彼は大学入学後も何度も私のところへ来て、そういう話をしていった。私は彼の有り余るエネルギーとそのひたむきな純粋さを知っているだけに、その挫折の報告を聞いて、何度も胸を痛めた。

「それはちょっと無理じゃないか」

私は何度そう忠告しようと思ったことだろう。でも、私は一度もそのことばを口にしなかった。いや、彼のひたむきで真剣な眼差しがそのことばを口にさせなかったといったほうがいいだろう。

「先生、ボクはやりますよ」

そう言われたら、「がんばれよ」というしかないではないか。

やがて大学を卒業し、彼は無謀だと思われるほど難度の高いテレビ局の制作プロダクションに就職を希望する。私がいつものせりふを胸の中に呑み込んでいると、ある日、彼は満面の笑みを湛えて、そのプロダクションに就職が決まったと報告しに来てくれた。

「よかったねー、H君」
「はい、先生、ぼくはドキュメンタリーで、マイノリティー、虐げられた人々のことを描き出す作品を作りたいんです、がんばります」

その後、一年ほど彼はほとんど不眠不休で働いた。そして、テレビの制作プロダクションというところがいかに「やらせ」を行ってテレビ局のご機嫌をとっているかという現実を見せつけられ、ついに退社を決意する。





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Last updated  2006.10.14 23:28:02
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和久希世@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) >「彼はこう言いました。「それもそうだ…
kuro@ Re:「チャンドラーのある」人生(08/18) 新しいお話をお待ちしております。
あああ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 非常に面白かったです。 背筋がぞわぞわし…
クロキ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 良いお話しをありがとうございます。 泣き…
М17星雲の光と影@ Re[1]:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) まずしい感想をありがとうございました。 …
映画見直してみると@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 伊集院がトイレでは拳銃を腰にさして準備…
いい話ですね@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 最近たまたま伊丹作品の「マルタイの女」…
山下陽光@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) ブログを読んで、 ワクワクがたまらなくな…
ににに@ Re:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) 文句を言うだけの人っているもんですね ま…
tanabotaturisan@ Re:WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW(07/01) キャロルキングの訳詩ありがとうございま…

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