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M17星雲の光と影

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2006.11.26
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テーマ:本日の1冊(3683)
カテゴリ:村上春樹
「グレート・ギャツビー」を二度読み終えた。読んだばかりの本をその直後にもう一度読み返すなどという経験は生まれてはじめてである。そもそも読んだ本を再読するということ自体ほとんどしたことがない。感銘を受けた本の場合には時を置いて再読したいとは思うのだけれど、なんとなく目先の新しい刺激に目を奪われてしまう。もうそんな年でもないだろうと思いつつ、やはり初読の本にこころが引かれる。

なぜこの本だけは例外なのか。正直いって私にもよくわからない。でも読み終えると、なんとなくもう一度冒頭に戻って読み直してしまう。本当のことをいうと、再読を終えた後、また第一章を少しだけ読み直してしまった。いいかげんにしろよ、とつぶやきながら。

一冊の本を読み終えると、頭のなかになにがしかのイメージが残る。ぼんやりとしたイメージの残存物というか、澱というか、そういうものがふわふわと漂っている。これをどこかの整理棚にしまわなければならない。「これはこれこれこういう作品だったな」と自分に言い聞かせて、頭の中の整理棚のある場所にしまう。どうもギャツビーではその作業がうまく行えないようなのである。

読後感をうまく整理することができない。読み終えてもまだ「読み切れていない」気がする。違う訳者で読んだ時には、こういう感想はもたなかったから、おそらくこれは作品そのものの力であると同時に、村上訳のもたらす作用なのだと思う。彼はあとがきの中で、今回の訳を「きわめて個人的なレベルでなされたもの」と述べている。だとすると、この何度読んでも読み切れていない感じ、繰り返し冒頭に戻って読み直したくなる気持ち、それは村上氏の個人的な感覚の反映であり、意識的か無意識的かは定かではないが、その感覚が訳を読んだ読者にも、ある意味では乗り移る。そういうことではないだろうか。

しかし、こんなことを長々と書いていても、何を書いたことにもならない。また「ギャツビー」?あたしゃ、そんなものには関心ないよ、という方は、申し訳ないが、今回の文章はパスということにしていただきたい。私は貧相な自分の整理棚を前にして、一冊の本がどうにも収納できずにうろうろと歩きまわっている状態なので、この作品に関心をもたない方が興味を抱くような文章はおそらく書けそうにもない。

しかし、それでもこの作品を読んでいない方に、そもそも「グレート・ギャツビー」とはどういう作品なのか、と問われたら、どう答えればいいだろう。

「とっても面白いの?」
「うーん、面白いというのとはちょっとちがうかもしれない。」
「ストーリーの展開が見事とか?」
「それもちょっとちがうような」
「人間存在が深く描かれているとか、深遠なテーマが追究されているとか」
「うーん、人物像は鮮やかだけど、深いかといわれるとどうかな。深遠なテーマというのもちょっとぴんとこない表現だし」
「じゃあ、いったいどこがすばらしいのよ!」

それがうまくことばにできなくて困っているのである。

でも、この作品を二度読んで、自分なりになんとかたどりついた解答がないではない。
それは「この作品は、『小説とは何か』という問いに対して、一人の小説家が書く側の立場から示したひとつの解答である」というものだ。わかりにくいですね。ちょっと説明します。

まず「書く側の立場から」ということばについて。これは「読み手、読者の立場から」ではないということである。つまり、これこそ究極の小説である、と言い切るつもりはまったくない。読み手の側から、これこそ文学史上最高傑作であるということはいえない。そもそもそういう作品を書くつもりで作者はこの小説の創作にのぞんではいない。

考えてみると、「小説とは何か」という問い自体が、読み手の側に主題として意識されることはまずないだろう。読む側からしてみれば、小説とは多様な形をとったものであり、「そりゃ、いろんな小説があっていいんじゃないの」ということで十分である。別に小説を一義的に定義する必要性そのものが感じられないだろうし、私自身もそんなこと考えてみたこともない。

でも、小説の書き手の側からすると事情は異なる。書き手は多様な選択肢のなかから一つずつ具体的に自分の作品世界の創造に適したものを選んでいかなければならない。ひとつひとつ丹念に、かつ具体的に。そこではおそらく「小説とはいったいどのようなものか」という問いが頭をかすめることだろう。そういう問いに対して、「グレート・ギャツビー」という作品はひとつの答えを提示している。私はそう思うのである。

もちろんその答えは「唯一の」正解ではない。そんなものはそもそも存在しない。だから、私は「ひとつの解答」という言い方をした。この問題は別解が無限に存在しうる、そういう種類の設問である。しかし、その無数にありうる解答のなかできわめて説得力のあるひとつの解答、それが「グレート・ギャツビー」ではないか。私はそう思うのである。

小説は何によって造型されるか。そう、まずそれは文章によってである。ことばによってである。ことばや文章がほとんど自己運動の形をとって増殖し、それがひとつの形をとる。それが小説的世界の創造だとするならば、この作品は、文章がひとりでに増殖をつづけ、それがひとつの作品として結実するという意味においてまぎれもなく「小説」である。

その小説に不可欠の要素としてどのようなものが挙げられるか。状況、情景、人物、その人物の性格、心理、その心理の推移、ストーリー。さまざまなものが考えられるだろう。

状況、情景、人物像に関しては、この作品はとにかく具体的な場面、人物の造型が鮮明で鮮やかな像を結ぶ。これは疑う余地がない。なぜこれほど生き生きと場面が、人物が描き出されるのか、その造化の妙は奈辺にあるのか。

この問いに対しては今の段階できちんと答える自信がない。でもおそらくその描写が単なる「説明」に堕していないこと、それが大きな要素であるように思う。

フィッツジェラルド的世界においては、人物の造型は、まず名前を紹介し、徐々に細部からその特徴を説明し、という形を必ずしもとらない。そこでは唐突に、一気に、その人物の行動なり、容姿なり、性質なりの特質ないしは本質が提示される。その後の自然な状況の推移や会話の展開のなかで、その固有名が紹介される。そういう手法がとられる場合が多い。

これは何というか、他ではあまり見られない表現手段である。その人間を紹介される前に、いきなりX線写真を見せられるような、唐突な驚きが感じられる。固有名はその後からついてくる。しかし、このような順序で示された名前は、その人間の属性とわかちがたい形で読む者の頭に強烈に刻み込まれる。これはベイカーとマートルの描写に用いられている。

こんなことをひとつずつ挙げているときりがなくなる。実はこういう「気づき」の集積が、この本の再読を促すひとつの要因なのである。

巧妙な伏線の張り方もそのひとつだ。ある表現が何十ページ、何百ページを飛び越えて呼応しあう瞬間、それもギャツビー的世界のひとつの特徴だ。そして、何度読んでも、その呼応が前の部分から後の部分へロープが投げられているのか、それともその逆なのか、それがどうしてもわからない。あらかじめ先の展開を見越した上で、最初の方にそれに対応する記述が配置されているのか、それとも書き進める中で、ああ、あの部分に対応する記述をここで出しておけば効果的だ、と考えて記述がなされているのか、何度読んでも判然としない。そういう部分が頻出する。しかし、結果的には作品全体の比較的距離の離れた部分同士が互いに呼応しあう。それもこの作品にしばしば見られる表現の特徴のひとつだ。

それは個々の表現だけでなく、人物にも見られる。主要とはいえない登場人物、その重要とはいえないエピソードに、実は深い意味が隠されているのではないか。そういう表現もこの作品にはしばしばあらわれる。

たとえば、そう、フクロウ眼鏡をかけた男がそうだ。彼はこの作品で三度登場する。一度目はギャツビー家の豪華なパーティーの最中に図書室の中で、二度目はそのパーティーのお開きの時に道路脇の溝に車輪がはまりこんで動けなくなった車の同乗者として、そして三度目はギャツビーの葬儀の数少ない参列者の一人として。

この男が存在する意味はなんなのだろう。私はこのフクロウ眼鏡の男の描写を読みながら、村上作品の羊男を連想した。ひょっとすると、ここに羊男の原型があるのではないかと。

彼の三度にわたる登場はこの作品においてどういう意味をもっているのか。一言でいうと、彼はカタストロフの予言者ではないか。それが私の仮説である。

図書室がなぜカタストロフにつながるのか?それについては、こういう描写がある。

「彼は僕の手から本をひったくると、急いでそれを棚の元の場所に戻した。煉瓦のひとつでも取り去ったら、図書室そのものが一挙に崩壊しかねないからな、というようなことをもぞもぞとつぶやきながら。」

今ある場所から何かを取り除いたら、それが全体の大きな崩壊につながる。他でもないギャツビー家の図書室の中で彼はこうつぶやくのである。これは予言ではないだろうか。

第二の場面。彼の乗った車は道路脇の溝に落ち、車輪の片方がもぎとられてしまい、走行不能に陥る。車の事故、車輪片方の脱輪、走行不能。パーティー散会の後のこの描写に後に起こる事件の暗示を読みとるのは深読みにすぎるだろうか。このエピソード自体は作品のストーリーに直接の関係をもたないだけにかえって私は考えこんでしまう。さらに無気味なのは、彼のそばにいたこの車の運転手である。彼の具体的描写はほとんどなされていない。そして、彼のせりふは次のようなものである。

「ちょっと下がってくれませんかね」と彼は一息ついてから言った。「今バックして出しますから」
「だって車輪がなくなっているんだぜ!」
彼は躊躇した。「やってみて損はあるまいが」というのがこの男の言いぶんだった。

既に失われてしまった貴重な片側の車輪、その喪失はまぎれもない事実であるにも関わらず、バックして車を走行させようとする男。「やってみて損はあるまいが」というせりふ。これはギャツビーの行為の意味とその結末を予感させる効果をもってはいないだろうか。

葬儀の場面はいうまでもない。なぜこの男がこの場に唐突に出てくるのか。読者は一瞬不審に思うところである。しかし、どうもフクロウ眼鏡の男は、この作品のストーリーを語る上でのキーポイントに出現し、作品の意味を語っているような気がしてならない。

これは再読で発見した多くの要素のなかのほんのひとにぎりにすぎない。この作品は、その内部にラビリンスを抱えている。そして、その迷宮の壁は村上氏もいうように「童話に出てくる魔法の豆の蔓」のような言葉の自生的な運動によって築かれている。

この作品が書く側から見た「小説とは何か」という問いに対するひとつの答えである、と私がいうのはそういう意味である。

少なくとも私はこの小説を読んで、小説とはこのように書かれるものなのかということを生々しい実感をもってはじめて感じとることができた。

そこではことばの自生的な運動があり、生きた人間の像があり、その像が動き出し、語り、行動する、その自然な帰結としてストーリーが展開し、結末を迎える。描写は緻密で細かく、具体的で機知に富み、しかし説明的ではない。せりふは登場人物の内奥からその体温のぬくもりまで感じさせる形で語られる。時系列も時には飛び越えてことばの運動が次々に増殖していく。おそらくその自己増殖作用をコントロールするのが作者の仕事であり、それをうまく着地させるべく彼は心を砕く。そういう精神作用の果てに築きあげられるもの、それが「小説」なのだ。

この作品はそういう経緯を雄弁に語っているのではないだろうか。

私が再読の果てに苦し紛れにたどりついたとりあえずの感想は以上である。





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Last updated  2006.11.26 21:19:22
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和久希世@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) >「彼はこう言いました。「それもそうだ…
kuro@ Re:「チャンドラーのある」人生(08/18) 新しいお話をお待ちしております。
あああ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 非常に面白かったです。 背筋がぞわぞわし…
クロキ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 良いお話しをありがとうございます。 泣き…
М17星雲の光と影@ Re[1]:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) まずしい感想をありがとうございました。 …
映画見直してみると@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 伊集院がトイレでは拳銃を腰にさして準備…
いい話ですね@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 最近たまたま伊丹作品の「マルタイの女」…
山下陽光@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) ブログを読んで、 ワクワクがたまらなくな…
ににに@ Re:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) 文句を言うだけの人っているもんですね ま…
tanabotaturisan@ Re:WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW(07/01) キャロルキングの訳詩ありがとうございま…

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