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M17星雲の光と影

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2006.12.01
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テーマ:感じたこと(2892)
カテゴリ:その他
いわゆる「いじめによる自殺」に関連する報道が新聞やテレビにあふれている。被害者の救済、加害者への処置、学校の責任、教師の能力、教育委員会の役割など、その論点は多岐にわたる。どれも考えるに値する問題ではあるのだろうが、ひとつだけ見落とされていることがあるように思う。

それは子どもたちは本当に「いじめ」が原因で自殺したのだろうかということである。

そんなことはあらためて論じるまでもない。彼らの死の直前の遺書を見ても、いじめが原因であることは明らかである。いまさらなぜそんなことを考える必要があるのか。そう思われる方もあるだろう。

しかし、はたしてそうだろうか。

一人の人間が自ら死を選び、それを実行するに至る過程、それは論じるまでもなく明らかなことがらなのだろうか。私はそんなことはないと思う。

一人の人間がなぜ自ら死を選んだか、その原因はほんとうのところ誰にもわからない。死の直前のことばや行動、遺書の文面からそれを探ることは可能だろうし、大切な作業でもあるが、つきつめて考えると、その本当の理由はわからない。そういうしかない。それを語るべき人間がすでに存在しておらず、語られるべきことばが永久に失われた以上、それはどこまでいっても想像ないしは仮定にとどまるしかない。

人間は複雑な生き物である。その内面にはさまざまな相矛盾する要素が雑然と混在し、その行動と動機とはけっして直線的に、一義的に連結されるものではない。

要するに、人間はわけのわからない生き物なのである。これらの事件に関する報道を見て私が感じるのは、このような人間の「わけのわからなさ」に対する意識が欠落しているのではないかということである。そこでは特定の原因とそこから引き起こされる行動とが一本の線でつながれているように見える。「いじめの存在→子どもの自殺」というように。まるで直列の回路でつながれた豆電球のように、スイッチを入れれば自動的に明かりがともる。そういうものとして子どもの行動がとらえられているように思う。

はたしてこれでいいのだろうか。そして、その矢印を逆向きにたどれば、「子どもの自殺→いじめの存在→それを黙認したのは誰か→責任者の特定→糾弾」という流れが、これまたイルミネーションの電球のように次々と逆向きに灯されていく。

そして、一定の時間が過ぎれば、電源が落とされ、すべての明かりは消えてしまう。そういう経緯をたどるのではないかという気がしてならない。

物事を単純化して、焦点を鮮明にする。それによって瞬間的に人々の関心は高まり、世論は喚起される。しかし、しばらくの後、それらはピークを越え、徐々に沈静化し、やがては消えてゆく。そして、忘れられた頃にふたたびぽつんと小さな電球がともる。

この国ではあまりにもそういうことが多すぎるのではないだろうか。

いじめが原因で自殺するということは、ある意味ではいじめの「成就」につながる。それは卑劣きわまりない「いじめ」を心ならずも完成させてしまうことになる。だからいじめを受けている者は断じて死んではならない。私はそう思う。

そして、死に直面している子どもの心情は、おそらく単線の上を走る列車のような状態になっているのではないだろうか。もちろん人間の内面がそんなに単純なものでないことは承知しているが、彼らは自身の内面をある意味では単純化、単線化することによって死に至っているのではないか。そう思えてならない。

そして、死の間際の彼らの内面には「自殺の決行→加害者への復讐」というもうひとつの直線的な矢印が刻まれてはいないだろうか。

あるいは私は単純化の危険性をあまりにも単純化して説明しすぎているのかもしれない。しかし、自殺者の内面にはある種の単純化、単線化が見られ、それはマスコミ報道のもつ単純化、単線化とけっして無関係ではない。むしろ深いつながりがあるのではないかと思うのである。だからこそ、マスコミの過剰とも思われる報道が、次々と連鎖的に起こる子どもの自死につながっているのではないか。そういう気がしてならないのである。

たしかにいじめは卑劣な行為である。たとえ子供の行為であっても、それらが一人の人間の生命を失わせた可能性があれば、彼らの行為は厳しく糾弾されるべきである。

しかし、そのことと自殺の原因がいじめであると単純に決めつけることとは違う問題だ。

こうすればこうなるという単線的な考え方が、生の多様性を、選択の余地を、子どもたちから、そして大人たちから奪いとっているように思えてならない。そして、その単純な決めつけが彼らの生の軌跡を単線の線路のようなものにしてしまっているのではないだろうか。

子どもたちが引き起こす深刻な問題、それに接した時にわれわれがまず考えるべきことは、それが「大人社会の模倣」ではないかということである。自死に至る直線回路、自死によって復讐をとげようという直列回路、この回路は実は今の社会の根幹を支えているものなのではないか。そのことを考える必要があるように思う。

わたしたちの社会は、年間に三万人近くの自殺者をコンスタントに生産しつづけている。そのことを想起すべきだろう。

生の多様性を圧殺し、選択の余地を封殺するもの、それは子どもたちの細い首にまかれた一本の細く、単純で、しかし強靱なロープと相似形をなしていないとはたして言い切れるだろうか。

私はそう思うのである。





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Last updated  2006.12.01 20:57:29
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和久希世@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) >「彼はこう言いました。「それもそうだ…
kuro@ Re:「チャンドラーのある」人生(08/18) 新しいお話をお待ちしております。
あああ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 非常に面白かったです。 背筋がぞわぞわし…
クロキ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 良いお話しをありがとうございます。 泣き…
М17星雲の光と影@ Re[1]:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) まずしい感想をありがとうございました。 …
映画見直してみると@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 伊集院がトイレでは拳銃を腰にさして準備…
いい話ですね@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 最近たまたま伊丹作品の「マルタイの女」…
山下陽光@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) ブログを読んで、 ワクワクがたまらなくな…
ににに@ Re:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) 文句を言うだけの人っているもんですね ま…
tanabotaturisan@ Re:WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW(07/01) キャロルキングの訳詩ありがとうございま…

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