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テーマ:気になったニュース(30421)
カテゴリ:その他
先日の「危険な直列回路」という拙文に対して、YABUさんからソリッドかつ凝縮された中身の濃いコメントをいただきました。
そのコメントへの直接的な回答というわけではありませんが、これを読んで触発されたこと、先日の文章で言い残したことを少し述べたいと思います。 先日、このブログにも書きましたが、いじめ問題およびマスコミ報道の問題点について、帰国生と授業中に話しあったことがあります。彼らの発言は様々な示唆に富むものだったのですが、それはあくまでも私との個人的な信頼関係の上になされたものであり、この場でそのままの形で紹介することははばかられます。ここではその際に私が感じた断片的な感想をいくつか述べることにします。 まず私自身はいじめの体験が皆無です。でも小学校時代、いじめはありました。それは肉体労働に従事する父親と二人暮らしをしているY君に対して、クラスのとくに比較的成績のいい子達がそれに近いことをしていたことがあります。「成績のいい子」ということから想像がつくように、それはかなり陰湿な感じの行為でした。私はその時、級長をしていて(古いことばです)、副級長の女の子がその問題をクラスの話し合いでとりあげようと提案しました。私は彼女に「ちょっとだけ待ってくれ」といって、一連の行為の首謀者を体育館の裏に連れだし、「やめとけ」といいました。小学校の五年くらいだったと思いますが、私は子供なりに「裏の顔」で真剣にそういったように記憶しています。あるいは「凄んだ」といったほうが正確かもしれません。それ以来、そのいじめは消えました。 そういう経験があるので、個人的にはいじめに対して「消し去ることができるもの」とうような思いをもっていたのですが、18歳前後の生徒たちとこのテーマについて話した感触では、どうも今のいじめは私がその時に遭遇したものとは質的に異なる要素が大きいように思いました。 話し合いの場で深刻ないじめ経験を告白した生徒は、二人とも女性であり、比較的目立つタイプでした。本来ならば、クラスの中心に位置するような、そういう雰囲気をもった生徒です。 しかし、その話し合いのずっと前、教室で初めて彼女たちを見たときの私の印象は、彼女たちは集団というものに倦んでいるなということでした。集団生活というものに心底うんざりしている。もうこんなところにいるのはいやだ。でも、だからといって出ていくこともままならない。しょうがないから比較的気の許せる人間を一人横において、教室の最後尾で授業を聴いている。そして、自分が人に認められるか、認められないかということに関してはきわめて敏感な反応を示す。しかも原則的には「おそらく私は認められないだろうな」というところから出発している。不思議なくらい、その二人は(それぞれ異なるクラスでしたが)似通った印象を与える生徒でした。 そういう印象をもっていたところに、彼女たちがいじめ経験を口にしたものですから、その経験が彼女たちの行動や考え方にどのような影響を与えたかということが自分なりにわかるような気がしました。そして、現在行われているいじめが、プラスの方向に「異質」な生徒に対してもなされる場合があるんだな、ということを同時に感じました。 ここからはちょっと乱暴な自分の仮説を述べることにしますが、私は今日のいじめはいってみれば「同質化社会の断末魔」のようなものではないかと考えています。 ふつう、いじめというのは、同質化に反するもの、異質なもの、それらを排除する。そういう行為だととらえられています。しかし、どうも今日の日本の社会は、もう同質化でまとめることができなくなっている。もともと同質化社会などということば自体が矛盾をはらんだ表現であり(異質なものの存在が社会の基本的な存立条件のひとつだと思います)、あくまでも「幻想」にすぎないものだとは思いますが、その「幻想」を維持することがむずかしくなってきている。そういう現状が背景にあるのではないかと思うのです。 出る杭は打たれる、という言い古された表現がありますが、今はむしろ「出る杭を神経症的に、強迫的に叩きつづける」ことでしか、集団の同質性を維持できなくなっている。そういう段階に達しているのではないでしょうか。 現実問題としてもう同質性を維持していくことが不可能になりつつある。それにも関わらず、同質性をなんとか維持していこうとして、そのための手段として(もちろん無意識的な形で)いじめが行われている。そういうことなのではないかという気がします。 そして同質性を(あるいはその幻想を)維持するためにもっともてっとりばやいのは、相対的な少数者の排除です。以前にはその少数者は劣位にある人間が選ばれる可能性が高かった。それは社会全体がある意味では「向上」を目指していたということと無関係ではないかもしれません。 しかし、そのような成長神話の賞味期限は切れました。停滞した空気の立ちこめる社会では、今度は逆向きのベクトルが姿を現します。ある意味では「優位」にある人間をひきずりおろす、そういう社会的なメンタリティが子どもたちのこころの中にも影を落としているのではないでしょうか(おそらくテレビという媒体がそこで大きな役割を果たしているのだと考えられます)。 先の話し合いの際に生徒がいったことで印象に残っていることばがあります。それは「暴力をやめよう、暴力を否定しよう、そういう考えがいじめにつながっているのではないか」というものでした。その生徒がいいたかったことは、直接的な暴力は表向きは否定されている。しかし、いわゆるいじめは「しかと」など直接的な暴力にはあまり頼らない。だから許される。そういう意識があるのではないかということです。そして、同時に「いじめ」ということばもよくないのではないか。現実に行われている事柄に比して、その表現はあまりにもソフトすぎる。そう言いました。私はこれはかなり鋭い指摘だと思います。 たしかに「いじめ」ということばは、ソフトな、ある種の「邪気のなさ」のようなものを感じさせます。ここにも「いじめ」やむなしという集団的総意のようなものが感じとれないでしょうか。無意識的にではあれ、集団の同質性を維持するための手段として「いじめ」が意識されているからこそ、このようなネーミングが行われたのではないかと思われます。 そして、われわれの社会が「暴力」というものに対して、表向きには否定しながらも、それに正対してこなかった、正面から問題として取り上げてこなかった。そういう偽善性のようなものが子どもたちの「いじめ」の背後に感じとれるようにも思えるのです。 肉体的、直接的な暴力は否定されてきた。しかし、その陰で精神的、言語的な暴力は黙認されてきた。表向きの暴力が否定された分、そのエネルギーは抑圧され、歪んだ形で精神的、言語的、かつ陰湿な暴力としての「いじめ」につながった。そういう側面もあるように思えます。 その話し合いの場で私は「日本的ないじめの特質はどこにあるか」という問いかけをしました。多くの生徒は「しかと」ということばを口にしました。日本以外の社会にも当然いじめは存在しているのですが、しかし「しかと」、つまり集団的無視という手段で人をいじめるということを日本以外の国で経験した生徒は、少なくともその場にはひとりもいませんでした。 私はこれについては考える必要があるだろうと思います。そして、ふたたび乱暴な仮説を述べさせていただければ、まず「いじめ」ようという意識があり、その手段として「しかと」が用いられるのではなく、むしろその逆なのではないかと思います。 そこではまず「しかと」がある。それは集団の同質性維持の手段として(無意識的に)考えられている。その「しかと」を有効に機能させるために、むしろ「いじめ」が行われる。ふつうに考えられるように「いじめ→しかと」ではなく、「しかと→いじめ」という流れのほうが正しいのではないでしょうか。 「しかと」とは無視を意味します。これはいじめられている側からすれば、あるいはありがたいと感じられる状況ではないでしょうか。だって「ほっといてもらえる」のですから。嫌いな者同士が互いに無視しあうというのはあまりにもあたりまえのことです。たとえばアメリカで「しかと」が行われないのは、ある意味ではそれが常態だからだとも考えられます。積極的な自己アピールを行わなければ、日常的に「しかと」される。そういう意識があるところでは、「しかと」は精神的なダメージを与えることができません。 もしもそれが精神的に個人を追いつめる力をもつとすれば、そこには「多対一」という関係が成立していなくてはならない。そして、「一」の側に回ることが決定的なダメージをこうむることを意味していなければならない。そういう社会の存在が必要とされるはずです。つまり、同質化社会を強迫的に維持しようとする動きは、同質化の度合いを確認するために、「しかと」という手段がうまく機能するかどうかを日常的に確かめようとする。その機能確認の場として「いじめ」が結果的に起こる。そういうことなのではないでしょうか。 まずいじめようという意志があって、その手段として「しかと」が選択されるのではなく、まず同質性を確認しようという意志があって(これは個人レベルの意志ではなく、集団レベルの意志です。したがって、個人の内面ではそれとして意識化されてはいません)、その度合いを測定するために「しかと」という手段の有効性が確かめられる。その有効性の確認がなされたということは、すなわちそこに「いじめ」が出現したということになる。 はなはだ乱暴な言い方で、思いつきの域を出るものではありませんが、私は集団的なメンタリティとしての自己保存本能のようなものが、子どもたちに、それとは意識されないまま「しかと」を行わせ、「いじめ」を行わせている。そこには無意識的なレベルではありますが、奇妙な、そして歪んだ、ある種の「達成感」のようなものが存在しているのではないか。そう思うのです。 そして、それは直接的、肉体的暴力をオモテの世界から排除してきた大人社会の「偽善性」を暴くということにおいてもある種の「達成感」を子どもたちに与えている可能性があります。 このようにいうと、私があるいは「いじめる」側を「やむをえないもの」として認めているのではないかと思われる方もあるかもしれませんが、そうではありません。 なぜいじめを行ってはいけないか。そう聞かれたら、私は「卑劣だからだ」と答えます。それで終わりです。それ以上の説明の必要を認めません。考えると、「卑劣」ということばを耳にすることが少なくなりました。卑劣ということばが忘れられた社会だからこそ、いじめが蔓延するということもいえそうです。個人のレベルであれば、「卑劣な行為だからやめろ」ということばで十分であり、このことばがきちんと機能するような方向に社会全体の意識を形成していく必要があると私は思います。 しかし、個人的な倫理の問題のみに目を向け、集団レベルで作用しているメカニズムを無視すると、個人の意識を呑み込んだ形で今後もいじめは増殖していく可能性があります。それを防ぐためにも、「同質化社会の断末魔」としてのいじめの頻発。私にはその視点をもつことが必要であるように思えるのです。 私の「いじめ」の構造に関する断片的な感想は以上です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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