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M17星雲の光と影

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2006.12.09
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カテゴリ:その他
電車に乗っても、街を歩いていても、利己的な行動をそこかしこで目にする。ああ、自己愛人間が増えたなと思う。でも、次の瞬間、こうも思う。「自己愛?」、はたして彼らは自分自身を愛しているのだろうか、と。

その一方で、青少年の自傷行為がある。いじめがある。幼児虐待がある。自分自身と他者への愛が失われたととりざたされる。でも、なぜそのようなことが社会的な広がりをもって日々増殖しているのか。そう問い直してみると、明確な答えは得られない。

「利己」の定義は簡単である。主体の利益が最大限になるように行動すること、それが利己的行動である。ここにはとくに問題はないだろう。

しかし、「自愛」は?このことばはいささか問題をはらんでいる。「愛」の定義はむずかしい。さまざまな定義が考えられるが、基本的にこの感情が対象とするのは「他者」ではないか。そういう気がする。

「愛」とは本来、他者に向けられるべき感情である。それは恋愛の対象でもかまわないし、家族でも、親族でも、地域でも、共同体でも、国でも、地球でも、子孫でも、自然でも、人類でもかまわない。しかし、一般的にその対象物は「他者」である。そういえるのではないだろうか。

だから、「自己愛」ということばづかいはきわめて特殊なものである。少なくとも、この用例を自明のものと考えるべきではないだろう。

「愛」が基本的に他者に向けられるべき感情だとすると、自己愛というのは、他者に向けられた感情が、その他者から反射して返ってくる現象、そういえるのではないだろうか。つまり、他者に向けられた感情が、照り返しとなって、自分自身に当たった結果、自分自身への愛が生まれる。ちょうど黄金色に輝く夕陽が山の斜面に当たり、それが斜面に反射して人の顔を赤く染めるように、他者を愛することによって、その「他者を愛し得た」という確信に基づいて、その行為をなした自分自身に対して愛情を抱く。これが本来の自己愛生成のメカニズムではないだろうか。

だから他者に愛を向けることのできない主体は、自己に対する真の愛情ももつことはできないのである。実際、利己的な行動に駆り立てられている人間を観察して、そこに「愛」を感じとることはきわめて困難である。彼らの行動を支配しているのは、何らかの欲望ではあっても、けっして「愛」ではない。

だから、利己的な行動の根底には愛は存在していない。そこには自己中心の欲望があるだけである。

もう一歩考えを進めよう。彼らの「自己愛」とみられる感情に、「愛」がないとすると、はたして「自己」はあるのだろうか。彼らは確固とした「自己」をもっているといえるのだろうか。

確固とした「自己」をもつためには、自己に対する意識が必要である。自己意識のないところに「自己」は存在しえない。彼らは明確な自己意識をもっているのか。そして、もしもっているとしたら、どのような手段によってそれを確認しているのか。

自分が自分であることを確認する手段。それはいったい何だろう。それは思索というよりも、まずは感覚的、直感的なものではないだろうか。たとえば、「快」、あるいは「喜び」。快感が自分の身内にあふれる時、その快感は自分が自分であることを確信させる手段となる。他人の身内にある快感が、そのまま自分の快感にかわることはないのだから。あるいは「喜び」。うちふるえるような喜びが全身を満たす時、その喜びに支配されている主体は、すなわち「自己」である。他人の喜びが、そのまま自分の喜びとして身内にわき上がることは考えられないからである。

「快」、「喜び」、「笑い」。こういうものは自己を確認するための重要な手段となる。それ自身が主体に満足を与えると同時に、その主体に満足を与えるという効果によって、それらの感覚は、自己が自己であることを確認する大切な手がかりとなる。だからこそ、人間は不断に「快」を、「喜び」を、「笑い」を求めるのだ。

話を利己的な行動に駆り立てられる人間に戻そう。彼らはどのようにして自己を確認しているのか。利己的な行動はどのような形で彼らの自己確認に貢献しているのか。そのことを考えてみよう。

利己的な行動を行っている彼らの姿を見て、あなたは「快」を感じるだろうか。「喜び」を感じるだろうか。彼らの顔には「笑顔」が浮かんでいるだろうか。答えは「否」である。

彼らは一様に、不快そうに、喜びのかけらも見せず、ぶっちょうづらをして、他人を押しのけ、突き飛ばし、自分の進むべき方向へと突き進んでいく。彼らは、少なくとも「快」や「喜び」や「笑い」で自己を確認してはいないように見える。ではどのようにして彼らは自己確認を行っているのか。

自己確認は、必ずしも肯定的な感情によってのみもたらされるものとはかぎらない。むしろそれは否定的な感情であってもかまわない。たとえば、「苦痛」。耐えがたい苦痛がその人間を訪れる時、その苦痛を味わうものはまちがいなく「自分自身」である。キリストでもない限り、他者の苦痛をそのまま自己の苦痛として味わう感受性をもった人間はいない。だとしたら、ぎりぎりと自分自身をきりさいなむ苦痛の中にある時、人はまぎれもなく、「ああ、この苦痛を味わっているのはまちがいなく自分自身だ」という確信をもつはずである。

冒頭に述べた自傷行為の意味するところはこれだろう。自分に耐えがたい苦痛を与えることによって、かろうじて自己の存在を確認している状態。それが自傷行為の背景にある情動だと思われる。

では、「いじめ」は?「幼児虐待」は?これも広く考えれば、自己確認の延長線上に位置する行動のように思える。自己を確認するということは、自己と自己以外のものとの間に境界線を引くことを意味する。「これは自己である」と断言することと、「これは自己ではない」と断言することは、結果的には同じことである。両者はコインの両面をなしている。だから、自己確認の欲望が、「これは自己ではない」という形で自己以外のものを排除する形で発動されたとしても何の不思議もない。

いじめの場合、「これは私たちの仲間ではない」という形で、拡大された自己意識とそれ以外のものとの間に境界線を引こうとして行われる場合が多い。他者への不快感、その不快感を共有することで仲間意識を強固なものとする。その結果、作られた「仲間」とはいいかえれば拡大された「自己」であり、いじめの結果、排除された者達は、「自己以外」の他者である。そして、その手段として用いられるものは「苦痛」である。その苦痛を体感するものは自己以外、その苦痛を経験しないものは自己、ここでも「苦痛」が自己と他者を分離する有効な手段として用いられている。

児童虐待のメカニズムはさらに複雑である。まずそこには「閉ざされた空間」がある。これはきわめて限られた空間で展開される「陣取りゲーム」なのである。ここにおける自己確認はある意味では自己に最も近く、しかも自己ではない者との「ゼロサムゲーム」の形をとらざるをえない。限られた円環の中で自分の陣地を最大限に拡張しようとすれば、その行為は、他人の陣地をいかにして略取するかということと同じことになる。自分の領土を増やした分だけ、他人の領土は小さくなる。自己を確認し、その領域を拡大しようという欲望は、閉じられた空間では、他人の領域を侵犯し、その生存を脅かし、窮地に追いこむことで達成される。これも広い意味での自己確認行為ということができる。

狭い空間において、自己に隣接する存在を脅かすことによって、彼らは自己の存在を確認しようとする。ここでは自己の喜びと他者の苦痛がゼロサムの関係をなす以上、用いられる手段は、もう「苦痛」でしかありえない。

他人の存在を毀損し、苦痛を与えることによってのみ、かろうじて自己を確認しうる存在。利己的な行動に駆り立てられる人々の内面には、こういう心象風景が広がっているように思えてならない。

そこには真の意味での「快」や「喜び」や「笑い」はない。それらは本来的に他者と共有することによってその効果を最大限に発揮するものだからである。他人に苦痛を強いる「快」は真の「快」ではありえないし、他人に不快を与える「喜び」も、他人の顔を歪ませる「笑い」も、真の喜びや笑いではありえない。

彼らは自己愛のために利己的な行動に駆り立てられているのではなく、むしろ自己を愛せないからこそ、愛以外の自己確認作業を行わざるをえなくなり、他人の不快や悲しみや苦痛を代償としてそれを行い、その行動が結果的に「利己的」と思える行為につながっているのである。

他者への愛の照り返しとして自己を愛せない人間は、利己的行為以外の手段では自己を確認することすらできない。そういうことではないかと私は考えるのである。





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Last updated  2006.12.09 23:04:11
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和久希世@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) >「彼はこう言いました。「それもそうだ…
kuro@ Re:「チャンドラーのある」人生(08/18) 新しいお話をお待ちしております。
あああ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 非常に面白かったです。 背筋がぞわぞわし…
クロキ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 良いお話しをありがとうございます。 泣き…
М17星雲の光と影@ Re[1]:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) まずしい感想をありがとうございました。 …
映画見直してみると@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 伊集院がトイレでは拳銃を腰にさして準備…
いい話ですね@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 最近たまたま伊丹作品の「マルタイの女」…
山下陽光@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) ブログを読んで、 ワクワクがたまらなくな…
ににに@ Re:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) 文句を言うだけの人っているもんですね ま…
tanabotaturisan@ Re:WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW(07/01) キャロルキングの訳詩ありがとうございま…

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