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M17星雲の光と影

M17星雲の光と影

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2006.12.13
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カテゴリ:その他
大学の頃、一般教養で「文学」の授業をとったことがある。講座名が「文学」というのだから、ずいぶん大ざっぱなネーミングである。どうせたいしたことはやらないだろうが、単位は取りやすいかもしれない。そういう軽い気持ちで受講届を出した。

私の大学では、午前中、専攻の語学の授業がびっしりと入っている。クラスは30名前後で徹底的に文法の反復練習などをやらされる。端から順番に文法の小問を当てられ、一時間で7~8回ほども答える順番が回ってくる。前日の予習にも3~4時間はかかる。これなら受験勉強のほうがはるかに楽だった。そういう悲鳴がそこかしこからあがる。そういうところだった。

だから、午後の一般教養の授業の頃には、もうみんなぐったりとしてしまう。もうどうでもいいや状態になっている。「ぶんがくー?おお上等じゃないか、教えてもらおうじゃないかよ、その文学とやらをよー」とはなはだ不遜な姿勢で授業に臨むことになる。まあ、そんなに態度の悪いのは私ひとりだが、個人的には大学で文学を学ぶこと自体にどこか反発を感じており、その反発心が逆に作用して、その授業を選ぶことになったのかもしれない。あんまりひねくれてるので、どっちが表でどっちが裏だか、しまいにはわからなくなってくる。始末におえない性格である。

最初の授業の日、教室に入ると、20数名の受講生がいた。大学の教室といってもほとんど高校の教室と同じ大きさである。それが半分弱埋まっている状態だ。外国語の大学というと文学の授業は盛況と思われるかもしれないが、基本的にこの大学は実学中心である。卒業生は商社に就職する者が多く、あくまでも実利を得るための現実的手段として語学がとらえられている。文学、哲学、社会科学系の授業は比較的すいており、各国事情のほうが人数は多かった。

受講生はご多分にもれず、女性が大半。7割くらいを占めている。しかし、チャイムが鳴ってしばらくたっても、教授はいっこうに現れない。私は早くもこの授業をとったことを後悔しはじめていた。

開始時刻からすでに20分ほどたった頃だろうか、ドアが開いて、教授が入ってくる。名前は「アンドウ」というそうだ。小柄な初老の男性である。痩身で全身黒ずくめの服装だ。細身のダークグレイのズボン。黒のタートルネックのセーター。それに黒いブルゾンのようなものを羽織っている。おまけに顔には黒のサングラスをかけている。髪にはやや白いものが混じってはいるが、これも基本的には黒。なんだか「カラス男参上」という感じである。

シラバスによると、この先生は自著があるようである。「蕪村」などと書いてあるので、江戸期の俳人の研究家だろうか。でも教科書の欄には書名の記載がない。教科書を買わないでいいというのも、その授業を選んだ動機のひとつだった。どこまでも志の低い学生といわねばならない。

全身黒ずくめの、やや陰鬱な感じの先生は、ちらっとわれわれを見渡して、明らかに「ふんっ」という顔をする。だるそうで、めんどくさそうである。「こんなやつらに話したってわかるわけねーんだよ」というメッセージがその顔から明瞭に読みとれる。その様子を眺めていると、少しだけ興味が湧いてくる。私がもっとも苦手とするのは、いわゆる「教師らしい教師」、「先生らしい先生」である。「君たちと話すことが私の人生の目的であり、最大の喜びなのだ」というような顔をされると、その場でクラウチング・スタートの構えをして、猛然と教室外に飛び出していきたくなってしまう。

でもアンドウ先生は、それとは正反対のタイプらしい。これはけっこう悪くないかもしれない。私はそう思い始めていた。それにどうみても江戸期の俳句の研究者には見えない。デカダンか前衛派の詩人みたいである。煙草の吸い殻がつっこまれたコップの水を教室に来る前に一息で飲み干してきたのではないかというような渋面をしている。その表情を見ていると、いったいどんな話をするんだろうという興味が逆に湧いてくる。

「これから一年間の授業でやることを黒板に書く。」

先生はそういってわれわれに背を向け、黒板になにやら書き始める。
黒板の右端から順番に5~6個の俳句がぽつんぽつんと書き付けられる。書き終えた先生は、つまらなそうな顔をして、白いチョークをぽいっと黒板の溝の中に放り投げる。

「これが一年間の授業でやることのすべてだ。」

えっ、一年間かけて、俳句が六個?とりあえず、その俳句をノートに書き写しながらも、ひょっとしてこのおっさん、いっちゃってるのかな、などと失礼なことを考える。

「どれかひとつでもこの中の俳句、解釈できるやつはおるか」

先生はそうのたまわれる。

「ちゃんと解釈できたら、その場で単位やるぞ。もう授業にはこんでもいいから、単位は進呈する。どうだ、だれかおらんか。」

黒板には、
 
紫陽花や薮を小庭の別座敷

などという俳句が並んでいる。でもなー、俳句なんか一読して解釈できるようなものでもないしな。みんなこれまで見たこともない句ばかりだし。よくわかんないや。おそらく他の人間も同じように思ったのだろう、一人の手も上がらない。

先生はその中の一句を取り上げ、「岩波のバカども」の通俗的な解釈を紹介し、口をきわめて罵倒する。内容の妥当性はともかくとして、その痛罵ぶりはなかなかにあざやかである。うん、なかなかおもしろいじゃないか、この先生。ずいぶん変わってるけど。そう思っているうちにチャイムが鳴り響く。しかし、一度勢いのついた先生の罵詈雑言はとどまるところを知らず、国文学の権威を片端からこき下ろしながら、授業はさらに30分ほど延長され、やっと終わった。

「来週はこの句をやる。3回か4回かけてやる。何を調べてもいいから、なんとか自分なりに解釈してこい。」

そう言い残して、先生はつまらなさそうに教室を後にする。いつの間にか、窓の外は薄暗くなっていた。


一週間がたち、二回目の講義が始まる。

「誰か、調べてきたやつはいるか」

先生がそう言う。いかにも真面目そうな女学生がノートを見ながら、滔々と解釈を披瀝する。先生はそれを聞き終えて、口から吐きだした苦虫をもう一度拾って口に押し込んだような顔をして、

「そりゃあ、○○の解釈だな。ずいぶんつまらんこと、考えとるもんだ。他には?」

怖くて手が挙げられない。教室がしーんと静まる。

そこから先生の話が始まる。まずひとつひとつの単語から、その意味、形状、含意、連想が一歩一歩、明らかにされていく。ふんふんふんとこちらは徐々にその話に引き込まれていく。けっして話がうまいわけではない。むしろ訥弁に近いといってもいいくらいだ。それはちょうど大きな独楽(こま)が頭を振りながら、ゆっくりゆっくりと回転を始めるさまを思わせる。つっかかり、つっかかり、あっちへこっちへと傾きながら、徐々に独楽は回りはじめる。ひとつひとつのことばの意味が明らかにされ、そこから詩的なイメージがつむぎだされてくる。それにつれて独楽は徐々にそのスピードを上げていく。授業が始まって一時間くらい過ぎた頃、その独楽は最大のスピードで音もなく高速で回りはじめる。ちょっと見にはまるで止まっているかのように、芯を一点に据えて、ものすごいスピードで回転する。解釈が膨脹し、連想が飛翔し、詩想が展開する。聞いている者の頭の中に色とりどりの情景が鮮やかに浮かんでは消えていく。

私はその話に聞き惚れて、ほとんどチャイムが鳴ったことすら気づかない。先生はいつも20分くらい遅刻して、30分ほど延長する。窓の外が徐々に暮色を深くしていくのを感じながら、巨大な独楽は教室の中で高速で回転しつづける。

紫陽花の花を思い浮かべてみろ。ちがう、ちがう、今の紫陽花じゃない。あれは西洋種だ。この頃の紫陽花は額紫陽花に決まっておる。その形状を思い浮かべろ。そう言われる。われわれは四つの花弁をもつその花を思い浮かべる。それは何かに似ていないかと問われる。似たものはないかと必死に考える。四つの花弁、真ん中には小さな粒状の花が密生している。四つの方形と真ん中の小さな部分。黒板に絵が描かれる。「何に見える?」えーと、何だろう。似たような形の花があったかな。四つの四角とその中心にある小さな花の群れ。自然の景色かな。でも自然のなかにはあんまり方形は存在しないし。うーん、と私は考えこむ。そして、突然「あっ」とひとつのイメージが浮かぶ。でも、見当はずれのことを言ったらぼろぼろにけなされる。どうしよう。誰も答えないな。どうしようかなー。ええい、いいや、いっちゃえ。

「四畳半!」

と私は声に出す。一瞬の沈黙。

「その通り。よくわかったな。」
 
よかった。罵倒されずにすんだ。

話はそこから四畳半のもつ空間的意味、それと禅との関係、茶の湯の作法、茶室の作り、客人のもてなし方、それに対する返礼の仕方というように、連想が次々と浮かび上がり、高速スピンのかかった独楽は金属製の床をドリルでこじあけるように回転し、金属の破片を周囲に勢いよく弾きとばしていく。

そして、最後にその俳句のイメージがわれわれの頭の中にくっきりと現れる。もう授業時間は30分以上過ぎている。でも、誰もそんなことは気にしない。詩的幻想力によって頭のなかにあざやかに描き出された極彩色の絵画を前にして、私の鼓動はどきどきと速まる。これが詩というものなのか。詩というものはこのようにして生まれ、増殖し、完成されていくものなのか。詩などというものとは無縁な生き方をしてきた私にも、それが生成していくプロセスが実感として伝わってくる。それは伝統的な短詩の解釈という形をとりながら、詩の生成のプロセスを体感させる講義だった。授業が終わっても、しばらくは動悸が収まらない。慣性の法則で回り続ける頭の中の独楽が回転をゆるめるまで、私は外に出て、あちこちを一人で歩き回り、頭を冷やさなければならなかった。

なんという人だろう。その解釈が正しいか、正しくないかなどということはもうどうでもよくなってくる。ただそこにははげしいきらめきとあざやかな光の放射とおびただしい発熱がある。詩的イメージがぐるぐると上方に向けて螺旋を描き、ついには巨大な幻想の竜巻が発生する。この人の頭のなかはいったいどうなっているんだろう。

そのようにして先生の講義は終わった。先生の予告通り、3~4回かけて一つの俳句を解釈し、それを六回繰り返したら、もう1年が過ぎていた。

先生は生徒への評価が厳しいのでも有名だった。単位は出すが「優」は出さない。それが先生の流儀らしかった。

その先生から二年続けて「優」をいただいたことが、私のひそかな誇りである。

その先生の名を安東次男という。

レジスタンス派を中心としたフランス現代詩に通じ、芸術派と社会派との融合を目指し、自らも日本を代表する詩人として活躍した。加藤楸邨に師事し、句作を行う一方、芭蕉、蕪村などの伝統的な詩文学の研究者として斬新な解釈を次々と世に問うた。通称「アンツグ」。それが「カラス男」の正体だった。

しかし、私がそのことを知ったのは、それからずいぶん後のことである。

今の職場に入り、源氏の研究で東大の大学院を出た同期入社の同僚に安東先生の話をしたら、「え、あのアンツグの授業を受けたのか」といって、心底うらやましそうな顔をされた。

5~6年前、新宿の駅の階段で一度先生とすれ違ったことがある。私は思わず頭を下げた。先生はこちらをちらっと見て、つまらなそうな顔で「ふん」といわれた。光栄にも顔を覚えてもらっていたようである。

4年ほど前、新聞で先生の死を知った。写真入りの大きな扱いだった。送辞は大岡信が読んだのではなかったか。

その記事を読み終えた後、私は巨大な独楽が大きく首を振りながら、回転を徐々にゆるめ、やがて「ことり」と傾いたまま動きをとめた姿をしずかにこころのなかに思い浮かべていた。





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Last updated  2006.12.13 21:38:25
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和久希世@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) >「彼はこう言いました。「それもそうだ…
kuro@ Re:「チャンドラーのある」人生(08/18) 新しいお話をお待ちしております。
あああ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 非常に面白かったです。 背筋がぞわぞわし…
クロキ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 良いお話しをありがとうございます。 泣き…
М17星雲の光と影@ Re[1]:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) まずしい感想をありがとうございました。 …
映画見直してみると@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 伊集院がトイレでは拳銃を腰にさして準備…
いい話ですね@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 最近たまたま伊丹作品の「マルタイの女」…
山下陽光@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) ブログを読んで、 ワクワクがたまらなくな…
ににに@ Re:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) 文句を言うだけの人っているもんですね ま…
tanabotaturisan@ Re:WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW(07/01) キャロルキングの訳詩ありがとうございま…

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