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カテゴリ:本
養老孟司「続・涼しい脳味噌」(文春文庫)の中に「日本回帰」という一文がある。
文庫本でわずか4pの短い文章だが、電車のなかで初めて読んだ時、ふふふと笑って、即座にもう一度読み直した。そして、ふたたび「ふふふふ」。その後も折りに触れて読み返し、都合5度ほど読んだろうか。でも、読むたびに頬がゆるんでしまう。きわめて短い文章だから、当該箇所を読んでいただくのがいちばんなのだが、不粋を承知の上で、その内容をご紹介することにしよう。 書き出しはこうだ。 「齢をとると、日本回帰する。明治の人なら洋服をやめて、もっぱら着物になる。いまなら、アメリカで生活していたのに、日本に帰ってくる。」 「起」はこのように無難な書き出しである。養老先生の日頃の言動から見て、これは「日本回帰」批判の文章であろうかと思ったが、さにあらず、この後にはご自身の経験が次のように綴られる。 「毎年、学生の解剖につきあっている。同じように進行しているのだから、今年は特別、というようなことはまずない。例年どおり、同じ実習室で、同じようなことをくりかえしている。 にもかかわらず、今年は奇妙な印象を受ける。学生の解剖が、どうもきたない。整然としていない。以前もたしかに、そう思ったことがある。しかし、その時の感じと、いまの感じは、少し違う。その微妙な違いが、要するに日本回帰らしいのである。」 この「承」の部分では、「学生の解剖が」「きたない」というあたりに気になる感触がある。どうもこの表現が「フック」になっているようだ。読む者はこの表現にひっかかりを感じながら、「はて、どうしてこれが日本回帰につながるんだろう」と疑問に誘われる。読者の受け入れ態勢が整ったところで、先生の筆は次のように運ばれる。 「なぜか。いままでなら、学生がきちんと必要な構造を剖出していない。それが気になった。その点は、今も同じである。いまではただ、それ自身が重要な問題ではない。学生の解剖が「きたない」のである。なぜきたないのか。それは、相手に則していないからである。自然に従っていないからである。 この「自然に従う」、ここのところが、日本回帰らしい。人体解剖は、やり方が決まっている。それは当然のことで、なぜなら、必要な構造をきちんと見るためには、解剖の手順が、「自然に」定まってしまうのである。いきなり心臓を見ようと思ったら、胸の壁は壊すことになってしまう。そんなやり方をしたら、解剖のためにいくら死体があっても足りなくなる。 浅いところからまず見ていく。浅い層が済んだら、次は深い層。それも、皮膚、筋肉、骨などのほかに、神経と血管がいたるところに出てくる。しかも、こういうものは枝分かれする。つまり根本と枝先がある。それぞれが切れないように、末梢から解剖しながら、それがどのような幹から出ている枝かを、順次確かめていく。」 ここの部分はさらりと書いてあるが、なかなか微妙な問題を含んでいる。これは一見すると、解剖を合理的に行うべきだという主張に見える。それぞれの組織を壊すことなく、仔細に観察し、人体の成り立ちをつかむためには合理的な解剖の方法というものがある。だから、もっと合理的にやりなさい。そう述べられているように思える。しかし、それならば「日本回帰」にはならない。西欧合理主義になってしまう。だから、これは「合理」ではないのである。あくまでも「自然に」なのである。「自然に」というのは、要するに「理屈じゃない」ということである。だから、これは「日本回帰」なのだ。そうして、文章は「転」へと入っていく。 「人体という不可思議なものがあって、それにメスを入れていく。そのときのメスの動きは、相手に則したものでなくてはならない。」 「それを学生に伝えようとすると、はたと気づく。それが、いかに難事か。なんのことはない、それを伝えようとするのが、茶道であり、華道であり、武道であり、要するに「道」ではないか。私は爺さんになって、弟子に「道」を説く始末になってしまったらしいのである。」 過剰な説明は一言もないが、必要なことはすべて述べられている。「そんなやり方は合理的じゃないだろう。それじゃ人体組織を観察できないじゃないか」。これが以前の指導法。 「なにをやってるんだ。きたならしい。それじゃあ仏さまが泣くだろう」。これが現在。要するにそういうことであろう。だからこれは「日本回帰」なのである。 そして、このエッセイは「結」に入る。 「解剖しながら、相手に従えといっても、わかるわけがない。本には、解剖の手順がきちんと書いてある。それにしたがって、なにが悪い。学生としては、そう言うしか、言いようがないであろう。 それはわかっている。でも書いたとおりにやると、なんでこんなにきたない解剖になるのだ。それでも、きれいにしようとすると、時間がかかります。時間がかかるというけれど、じつはお前らほとんど遊んでいるではないか。 なんだか知らないが、そんな会話になってしまう。時間をかければ、きれいになる。それは嘘である。魚屋の手捌きを見ればいい。短い時間に、きれいにおろすではないか。時間をかけたら、きれいになる。そんなはずはない。 魚屋があそこまで行くには、それだけの時間をかけて修行してます。それなら、お前らは、修行ではなくて、なにをしているというのだ。そこまで行くと、喧嘩になる。いつの間にか、こちらは解剖が修行になってしまっている。あちらには、そんなつもりは毛頭ない。やっぱり、日本回帰らしいのである。」 このやりとりはなんど読んでも笑いがこみあげてくる。漱石先生もかくやと思われるほどの歯切れの良さである。 「なんで解剖が「道」になり、「修行」になるのか、今度は当方がわからない。そんなはずではなかったのだが。解剖がきれいだとかきたないとかいっても、そこに「客観的基準」が存在するわけではない。説明したいのは、そういうことではない。そう思いつつ、説明を考えていると、やっぱり「道」の説明に似てくる。」 うーん、なんだか身につまされるなあ。 「先生、小論文ってどういうふうに書けばいいんですか」 「さあ、よくわからんな」 「じゃあ、先生はどうやって書いてるんですか」 「てきとー」 「そんなあ、それじゃわかんないじゃないですか」 「だからわからんというとるじゃないか。小論文の書き方知りたかったら、四の五の言わずにとりあえず書きゃあいいんだよ。書きゃあ。」 「だからどうやって書いたらいいんですかって聞いてるんじゃないですか。」 「だから、てきとーに書きゃいいだろう、てきとーに」 「そのてきとーがわからないんですよ」 「それは、練習が足らんからだろう。手も動かさないで頭が動くと思うか。体も動かさないでこころが動くと思うか。「てきとー」の奥深さも知らんで、どうやって奥行きのある文章が書けるんだ」 「…………(ぶるしっと)」 閑話休題。養老先生の「日本回帰」はこう続く。 「なんでもいいから、まずやってみな。やらせてみて、それではきたないと言って、怒る。どうきたないか、その目を養うのも、修行なのである。学生にその目があるわけがない。」 そして、最後はこう結ばれる。 「ああ、嫌だ。爺さんになった。」 ああ、いいなあ。この末尾。 「ああ、嫌だ。爺さんになった。」 こういう爺さんにわたしもなりたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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