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M17星雲の光と影

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2008.02.15
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カテゴリ:その他
中村雄二郎「『させていただく』考」という文章の書き出しにふと目がとまる。

「しばらく前から、自己と他者の関係、とくに日本社会での自他の関係を考えてきて、『させていただく』ということばが気になっていた。私はもともとばか丁寧な言い方は好きではないので、『させていただく』ということばをずっと使わないですませてきた。しかし、ある程度歳を取ってきて社会的に責任ある立場に立たされるようになると、そうもいかない場面がどうしても出てくる。そういうとき、他人がそのことばをこだわりなく言うのを聞いていると、その方がどんなに気が楽かと思うのだが、それがうまく言えない。」

同感である。私も生まれてから今日まで「させていただく」ということばを口にしたことは一度もない(と思う)。他人がそう言うのを聞いただけで、なんだかタオルをぎゅうっと絞りあげられるようにからだがよじれてしまう気分になる。「させていただく」と「よろしくどうぞ」というフレーズはおそらく生涯口にすることはないだろう。よくわからないが、生理的にまったく受けつけないのである。

「もともとばか丁寧な言い方が好きではない」という部分にも共感する。「好きではない」どころか、私にはそういう言い方をする人間を「警戒」するところがある。これまでの人生で、そういう人間に少なくとも三人は出会ってきた。

一人は職場の年上の男性、一人は同年代の元同僚、もう一人は妙齢の女性であった。三人ともことばづかいが過剰に丁寧だった。ただそこには文法や語法の乱れはほとんどない。きわめて整然と「ばか丁寧」に話がなされるのである。

ふつうなら「ずいぶん丁寧な人だな」と思うだけだろうが、私には彼らの話し方はどうにも不自然なものに感じられた。その丁寧さが「何か」の補償行動のような気がしたのである。こころの奥に「何か」があって、その何かとのバランスを取るためにやむなくそういう話し方がなされているように思えたのである。

結果から見て、私の直感はそれほど的はずれのものではなかったようである。

最初の一人は、仕事を終わって帰宅すると、晩ご飯を済ませた後、細君と向かい合い、その日、職場で起こった出来事を時系列に則して、綿密かつ細密に、細大漏らさず、記憶に残る限り、一言一句まで再現する習慣があったそうである。その業務報告は毎日、ゆうに1時間を超えるものだったという。

二人目は後に重度のアルコール依存症であることが判明した。日頃の異常な腰の低さとことばづかいの丁寧さとは裏腹に(私はすれ違いざまにお辞儀をされて、彼の頭が地面につくのではないかと心配したことがある)、酩酊時の突発的な暴力行為と悪口雑言ぶりは同席した人々に深い印象を残したそうである。(幸いにして私には直接それを見聞する機会はなかったが)

三人目の女性は長く心身症を患い、極度の拒食症状を示し、何度も路上で意識を失うことがあった。周囲の人間が世話したカウンセラーに対して、事前に膨大な臨床心理学の文献を読み込み、自分がいかに健全な精神の持ち主であるかということを滔々と説き、まったくカウンセリングをさせなかったという話である。

「ばか丁寧さ」のすべてがそうだというつもりはないが、聞いていてどうにも居心地が悪くなるような不自然な丁重さには、何かそれなりの事情があるように思えるのである。

さて、「させていただく」の話に戻ろう。この言い回しはビジネスの場面ではかなりの頻度で現れる。

中村氏も先の文章で述べていることだが、この表現は「させる」という使役の動詞と、「いただく」という謙譲語が合体したものである。あなたさまのおかげで私はこの行為をなすことができるのであり、その寛容なお気持ちに対して感謝の念すら感じている。そういうニュアンスを伴う表現である。

「使役」というのは、他人にある行為をさせることだ。「やりたくてやったんじゃないよ、おまえがさせたんだよ」という時の「させる」が使役である。つまり、自分から主体的にやったんじゃない。おまえがそうさせたんだよ。そういうニュアンスがここには感じとれる。

「謙譲」はへりくだりである。相手を見上げるために、自分の足元に穴を掘る行為を「へりくだり」という。相手との身長差を拡大するためには、相手を台の上に載せる「尊敬」と、自分の足元に穴を掘る「謙譲」という二つの方法がある。謙譲はわざわざ自分を低く見せようとする行為だから、どうしてもそこには卑屈さ、いじましさがただようことになる。

その結果として、この言い回しには自発性・主体性に欠け、潔さ・決断力に欠ける優柔不断な姿勢がにじみでる。私のこの言い回しに対する抵抗感をあえてことばにしてみると、そういうことになる。

しかし、ここまで書いてきて、「これだったら自分も使うかもしれないな」という例文をひとつ思いついた。それはこういう文章である。

「今日限りで辞め『させていただきます』」。

うん、これなら使う可能性はあるな。たまたまこういう機会がなかっただけで、もしこのことばがふさわしい状況に置かれたとしたら、使ってもぜんぜんおかしくない。しかし、この例文だけ違和感がないのはなぜだろう。

おそらくそれは「おれをここまで追い込んだのは、まぎれもなくおまえさんたちだぞ」という含意が明確に感じとれるからだろう。これなら上司の目を下からにらみあげ、奥歯をぎりぎり鳴らしながら口にしても、それほど不自然には感じない。適度に言語外情報をぱらぱらとふりかければ、謙虚さどころか逆に「不遜」さすら感じさせることのできそうなフレーズだ。

自ら辞めたいと思ったのではない。なにものかの力によって(おそらくはそのなにものかに目の前のあなたも加担しているのだ)、ここまで追いつめられてしまった。これぞまさしく「使役」である。

しかし、だからといって公然と相手を非難することはできない。現段階では自分はまだ組織に属しており、相手は同じ組織の目上の上司だからだ。しかし、いくら目上とはいっても相手はいわば「加害者」だ。そんな人間を今さら高い台の上に載せてあがめ奉る気持ちにはなれない。よーし、上等じゃねーか、ここはひとつオレ様の足元に深々と穴を掘り、その穴の下のほうから話してやろうじゃないか。その姿を見て、加害者であるあんたの気持ちも少しは痛むんじゃないの、きりきりと。

そこで「謙譲語」の出番というわけである。

加害者はおまえさんだ。そのせいでオレはこんなところまで追いつめられちまったんだぜ。

こういう状況で発せられる「させていただく」は、むしろ自然な言い回しに聞こえる。

「えー、それではただいまより○○社長の叙勲を祝う会を始めさせていただきます」

【内心訳】
おまえがめんどくさい勲章なんかほしがるから、この忙しいところにわざわざみんなで集まる羽目になっちまったじゃねーか。ああ、めんどくさい。噂ではずいぶん下工作したって話も聞いてるぜ。いくつになってもあぶらっけの抜けねえじじぃだぜ、ったく。みんないやいや来てんだよ。顔はにこにこしてるけどよ。あーあ。こんな欲ぼけじじいの下で働くことにつくづく嫌気がさしてきた。でもなあ、これから再就職先探すったってかんたんじゃねーからなあ。こんなとこにいなきゃいけないオレもずいぶんと情けねーよなあ、考えてみると。あーあ、やだやだ」

「させていただく」というフレーズの背後には、なかなかに豊かな含意が読みとれるようである。ことばの幅を広げるためにも、ひとつこのフレーズを使ってみるとするか。

ということで、このあたりでこの文章を慎んで終わらせていただくことにするのである。






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Last updated  2008.02.15 21:22:23
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和久希世@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) >「彼はこう言いました。「それもそうだ…
kuro@ Re:「チャンドラーのある」人生(08/18) 新しいお話をお待ちしております。
あああ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 非常に面白かったです。 背筋がぞわぞわし…
クロキ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 良いお話しをありがとうございます。 泣き…
М17星雲の光と影@ Re[1]:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) まずしい感想をありがとうございました。 …
映画見直してみると@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 伊集院がトイレでは拳銃を腰にさして準備…
いい話ですね@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 最近たまたま伊丹作品の「マルタイの女」…
山下陽光@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) ブログを読んで、 ワクワクがたまらなくな…
ににに@ Re:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) 文句を言うだけの人っているもんですね ま…
tanabotaturisan@ Re:WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW(07/01) キャロルキングの訳詩ありがとうございま…

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