200.沖縄玉砕戦(20) 八原! 後学のため予の最期を見よ!
(ウツボ)六月十八日には、勝利を目前にしながら、米侵攻軍司令官・バックナー中将は戦死した。その翌日の十九日には歴戦の勇将、第九十六師団の副師団長、イーズリー准将も戦死した。(カモメ)バックナー中将は不運ですね。日本軍側は、六月十八日に第四十四独立混成旅団長・鈴木繁二少将(陸士二六・陸大三四)が斬り込み攻撃に出て戦死しましたね。(ウツボ)そうだね。沖縄守備軍は、もう末期的状況だね。六月十九日、第三十二軍司令部は、鉄血勤皇隊の解散を命じた。この日、第三外科配属のひめゆり部隊が伊原の壕内で最期を遂げた。(サヨリ)米軍は上陸以来、降伏勧告のビラを八百万枚も散布していました。その効果があり、米軍が最後の拠点、摩文仁岳を占拠した六月二十日、太平洋戦争で初めて九百七十七人もの大量の投降者が出ましたね。(カモメ)六月二十二日には、第二十四師団長・雨宮巽中将(陸士二六・陸大三七)と第六十二師団長・藤岡武雄中将(陸士二三)が自刃して果てました。(ウツボ)そして六月二十三日には、沖縄守備軍司令官・牛島満中将と参謀長・長勇中将が自決した。これにより、沖縄本島に米軍が四月一日に上陸以来、八十四日間に及んだ組織的戦闘は終焉した。高級参謀・八原博通大佐は脱出中に捕虜になり生き残った。牛島中将は自決後大将に昇進した。(カモメ)軍司令官・牛島満中将と軍参謀長・長勇中将が自決したのは、アメリカ軍が遂に軍司令部洞窟にも攻撃を仕掛けてきて、洞窟内にも戦死者が出始めた頃でしたね。司令部勤務の女性達の中の数人も手りゅう弾などで無残な死を遂げました。(サヨリ)高級参謀・八原大佐は両将軍の自刃に立ち会いましたね。司令部要員が見守る中、洞窟の出口に、牛島軍司令官と長軍参謀長、佐藤軍経理部長が座ったのです。佐藤経理部長は長軍参謀長と士官学校同期で一緒に死にたいと申し出たのですね。(ウツボ)そうだね。長軍参謀長は切腹の姿勢で振り返り、「八原! 後学のため予の最期を見よ!」と言った。介錯の剣道五段の坂口大尉が、長刀を振りかぶったが、ためらって、「まだ暗くて、手元がきまりません。しばらく猶予を願います」と言った。(カモメ)明るくなれば、海上の敵艦から砲撃を受け、再び洞窟は攻撃されます。両将軍の最期を見守っていた司令部要員達や女性勤務者達は、動揺し、将軍の許しを得て、洞窟を駆け下り始めました。(ウツボ)八原大佐は、彼らに逆らって両将軍のところへ向った時、銃声が一発聞こえた。佐藤軍経理部長の自決だった。そのあと、坂口大尉は両将軍の首をそれぞれ、一刀のもとに見事にはねた。(カモメ)両将軍の自刃の後、八原大佐は、高級副官、坂口大尉と三人で出口のドラム缶に腰を降ろして、白々と明けゆく空を眺めたのです。八原大佐はこのとき、「第三十二軍は完全に潰え去った」と思いました。六月二十三日午前四時三十分でした。(サヨリ)なお、その後も沖縄各地で戦闘は続きましたね。牛島軍司令官の最後の命令は「最後の一兵まで戦え」でした。さらに六月末までに約九千人の日本兵が戦死し、二千九百人が捕虜となったのです。(ウツボ)七月二日、米軍は「沖縄作戦終了」を宣言した。だが、歩兵第三十二連隊の一部は八月十五日の終戦後も徹底抗戦を行い、米軍に降伏したのは八月二十九日だった。(カモメ)九月三日、山中でゲリラとなって戦闘を続けていた第二十七魚雷艇隊は、戦闘を中止し、我部祖河の旧製麺工場跡の広場で降伏式が行われました。(ウツボ)九月七日、沖縄防衛軍の正式な降伏調印が嘉手納の米第十軍司令部でに行われた。(カモメ)日本軍からは先島集団長・納見敏郎中将が、米軍からは第十軍司令官・スチルウエル大将が、それぞれ降伏文書に調印、正式に沖縄戦は終結しました。降伏文書が調印された後、米軍は星条旗を掲揚しました。(サヨリ)九月末には、宮古島などの日本軍の残された膨大な武器や弾薬類が集積場に集められ、米軍の上陸用舟艇などで、日本兵により洋上投機されました。(ウツボ)この沖縄玉砕戦の米軍の戦死者は約一万二千人。日本軍兵士の戦死者は約九万四千人。兵士の捕虜は約1万人。また、住民の死者は約九万四千人だった。(サヨリ)アメリカの歴史学者の一人は「沖縄ほど今次の戦争政策の決定に無縁な存在でありながら、戦争の被害を最大にこうむったのは例がない」と述べていますね。(カモメ)別冊歴史読本「沖縄~日本軍最期の決戦」(新人物王来社)によると、日本軍の沖縄作戦の失敗は、大本営を中軸とする日本の戦争指導部が中央(東京)中心主義にとらわれたことだと記されています。(ウツボ)日本の大本営は、米軍ほどにはその陸海空軍基地としての沖縄のトータル的な戦略的価値を認識していなかったことが失敗の原因といえる。(カモメ)この認識の差はアメリカが「琉球侵攻作戦」では全太平洋軍の総力を結集して当たったのに対し、日本軍は陸海軍の戦略思想の不統一のまま、作戦も攻勢と持久の間を揺れ動いていました。(ウツボ)さらに戦局急を告げる時点で、補充もしないまま沖縄守備軍から精鋭の一個師団を抽出する愚を犯した。大本営の誤算だった。また第三十二軍の上級司令部の第十方面軍に対する不信感もあった。(サヨリ)第三十二軍自らも攻勢、持久戦術の揺れがあったので、それを繰り返した結果、敗退、自滅しました。(カモメ)沖縄が玉砕後、米軍は「沖縄の軍事的価値はすべての期待をしのぐものだった」と発表し、その重要性を再認識したのです。(ウツボ)サヨリさん、これで「沖縄玉砕戦」は終わりますが、俺は、この沖縄戦の結果から、戦闘の勝敗は作戦の優劣を超えて、総力戦で決まるものだとの感想を持ちましたが、その点、どのように思われましたか?(サヨリ)総力戦とは、兵員や兵器、航空機、艦船の数、補給物資の量などで決まるものでしょうか。(ウツボ)そうですね。それに陸海空の統合運用と、それらに使用する兵器の強力度、パワーですね。さらには国家総力戦という意味では、その国の戦時体制の経済力、技術力、資源量などが加わりますね。(カモメ)戦車にしても日本軍の戦車よりも米軍の戦車は強力でしたね。戦闘機は、ゼロ戦を超える性能のものを米軍は大量生産して前線に送り込みました。爆撃機も米軍のBー29を越えるものは日本には無かった、研究はしていましたが。空母も大量生産しましたね。艦砲射撃なども、ロケット弾などが開発され、雨あられの攻撃量でしたね。(サヨリ)平易な言葉ですけども、そのような総力戦という見方からすると、沖縄戦は、もう負けても仕方がない戦争でしたね。問題にならないというか。資料によると、米軍は沖縄戦に至る前、三年間以上の日本軍と度重なる戦闘を通じて、日本軍との戦闘方法を研究し、その研究の総決算としての成果を作戦に生かして大胆に沖縄戦に臨みましたね。(ウツボ)本当に、その通りですね。まさに自信を持って怒涛のように攻め来る米軍に日本の沖縄守備軍は立ち向かう術も無かった。極言すれば、沖縄の玉砕は必然でしたね。特攻攻撃「菊水作戦」も成果は思うように上がらなかった。(カモメ)特攻機は、米国の駆逐艦などは撃沈しましたが、戦艦と空母は一隻も撃沈していませんね。逆に日本は沖縄戦で、戦艦大和が沈み、連合艦隊は壊滅しました。(サヨリ)そのような末期的な戦況の影響が、沖縄守備軍の軍司令部の人間模様にも現れていたように思います。軍司令部内の、あきらめというか、無気力、そのようなものですね。(ウツボ)そうですね。どうしようもないという状況だったのでしょうね。サヨリさん、今日はありがとうございました。(サヨリ)こちらこそ、参加させていただいて、ありがとうございました。(ウツボ)サヨリさん、今度、日露戦争で対談をお願いします。(サヨリ)あっ、はい。またの対談、楽しみにしています。今回は、いい経験になりました。ありがとうございました。(今回で「沖縄玉砕戦」は終わりです。次回からは「ソロモン海戦」が始まります)