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意外な戦史を語る~  カモメとウツボのメクルメク戦史対談

意外な戦史を語る~ カモメとウツボのメクルメク戦史対談

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2010.01.08
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カテゴリ:沖縄玉砕戦
(ウツボ)「通風器の口に金魚のように口をあて、外気を吸っている長勇中将(六月二十三日自決)。背に忠義と書いた牛島中将(六月二十三日自決)の肌着をもらったという女」

(カモメ)「壕内の憂さ晴らしに牛島軍司令官の話し相手を、自ら買って出たという西岡女子師範部長兼一高女校長。それを口汚く痛罵する情報係の広瀬大尉」

(サヨリ)「『お早うかね、今晩は、かね』と、にこにこ顔の牛島満軍司令官。『飛行機の救援はないのか』と悲憤のあまり、卓上をたたく独立混成第四十四旅団長・鈴木繁二少将(陸士二六・陸大三四・六月二十二日戦死)」

(ウツボ)以上が、沖縄タイムズ記者の書き残した首里の地下壕にある沖縄守備軍の軍司令部内の様子だ。

(カモメ)ところで、緒戦の快進撃で勝利に酔い、守備軍の本拠、首里を一気に攻撃できるとみていた米軍は、五月十一日首里への攻撃を開始しました。

(ウツボ)そうだね。安里五二高地(米軍はシュガー・ローフ高地と呼んでいた)は遮蔽物が何も無い丘で、攻撃する米第六海兵師団は多大の犠牲を出した。米軍はこの五月十三日から十九日までの戦いを「シュガー・ローフの戦い」と呼んでいる。

(サヨリ)このシュガー・ローフの戦いで、米軍は首里周辺の台地に釘付けにされた上、首里攻防戦で、かつて例のないほど損害を出したのですね。

(ウツボ)米軍にとっては、想像以上に手ごわい相手だった。日本兵の肉弾戦術に怯え、シュガー・ローフの戦いで精神に異常を来す米軍兵士が続出した。

(サヨリ)そうした戦闘疲労症は海兵隊に六千三百十五人、陸軍に七千七百六十二人も出て、アメリカ軍の太平洋戦争中最大の記録となりました。

(カモメ)米軍は航空部隊によりこの高地を爆撃しました。また戦艦、巡洋艦、駆逐艦により艦砲射撃も行ったのです。そのあと、シュガー・ローフでは、米第二十九連隊が攻撃を開始しました。でも遮蔽物がないので、突撃に等しかったのです。

(サヨリ)ところが、日本軍の砲兵も榴弾砲八門、山砲四門、重迫撃砲などにより、攻撃してくる海兵隊、戦車に、優れた観測の下で正確な射撃を行い、米軍を撃破しました。海兵隊は大きな損害を出しました。

(ウツボ)それでも米軍は高地の山上を占領したが、日本軍の集中射撃を浴びて、とうとう将校一名と十九名の兵士のみとなった。日本軍は再び高地の山上を攻撃し、奪還した。

(カモメ)シュガー・ローフ高地付近の争奪戦は、五月十七日、十八日、十九日と、いっそう凄惨な肉弾白兵戦を繰り返して続行されました。

(サヨリ)このシュガー・ローフの戦いで、米軍の海兵第六師団の損害は、死傷二六六二名、精神病者一二八九名に達しました。

(ウツボ)一方、沖縄の陸上で孤立苦闘する日本軍を、始終鼓舞、激励してくれたのは、連夜九州および台湾方面から出撃してくる陸海の特攻機だった。

(カモメ)特攻機は多い日には百機を越え、少ない日も数十機、月明かりまたは黎明薄暮を利用し、果敢に敵艦船に突入したのですね。

(ウツボ)そうだね。特攻が始まると、必ずドロドロの轟音が聞こえてきて、沖縄防衛軍の兵士達は、我々だけではないんだという感じを持った。

(サヨリ)五月二十二日、米軍は与那原まで進出してきました。米軍報道部は次の様に発表しました。

(カモメ)読んでみます。「二十二日、与那原を占領した米国第十一軍第七師団は、南方に千二百ヤード前進し、さらに二つの丘を占領した第六海兵師団は、はげしい風雨をおかして、丘から撃つ敵の弾をあびつつ、安里川をわたり、河口より千ヤードをへだてた、首里那覇の北部に侵入した」

(ウツボ)「昭和日本史5・太平洋戦争後期」(暁教育図書)によると、沖縄守備軍は戦局の劣勢を挽回することは不可能となり、五月十九日、牛島司令官は「守備軍は総力を挙げて敢闘しているが、まさに組織的戦略持久は終焉しつつある」と述べ、大本営に対し総力を挙げての支援を要求した。

(カモメ)だが、大本営は、現地のこの要求を無視しました。沖縄に兵力を割く意思はなかったのです。沖縄戦に関わる「天号作戦」は、本土決戦を意味する「決号作戦」に切り替えられました。

(サヨリ)このことから、牛島司令官はひそかに首里を放棄し、沖縄本島南部の摩文仁(まぶに)に撤退することを決めたのですね。

(ウツボ)そうだけど、それを知った島田叡県知事は「軍が南部に移れば、南部一帯に避難した三十万近くの住民が戦禍に巻き込まれる」としてあくまで首里に留まることを司令部に嘆願した。

(カモメ)だが、五月二十二日から、軍司令部の首里からの撤退作戦は予定通り実施されました。その結果、南部地区の市町村の損害は文字通り壊滅的なものになったのです。

(サヨリ)ちなみに「ひめゆりの塔」の所在地、米須部落は戦争時、戸数約二百七十戸、人口約一千五百人でしたが、戦後生存者はわずか百十人だったそうです。

(ウツボ)米軍が占領した北(読谷)飛行場と中(嘉手納)飛行場は、米軍が整備して、戦闘機を配備、日本軍の特攻機阻止のため、迎撃に飛び上がった。

(カモメ)これにより、特攻機は甚大な打撃を受けたため、日本の大本営は、これら米軍の両飛行場を破壊する作戦をたてました。

(ウツボ)それが義烈空挺隊の特攻出撃だね。敵の飛行場に強行着陸し、特攻の義烈隊員が外に飛び出し、飛行場を破壊するというものだ。

(サヨリ)昭和二十年五月二十四日、日本軍の義烈空挺隊(奥山道郎大尉以下、百三十六人)が、九七式重爆十二機に分乗し熊本の健軍飛行場を離陸、沖縄の北・中飛行場に強行着陸を行うため飛び立ちました。

(ウツボ)日本軍の大本営発表では、「同日夕方、沖縄の北飛行場に六機、中飛行場に二機強行着陸に成功、特攻攻撃をかけ、多数の米軍航空機を破壊、四機はエンジン不調で引き返した」ということだった。

(カモメ)けれども、戦後の米軍の報告では、「沖縄に向った十二機の九七重爆のうち、故障で四機が引き返し、七機が沖縄の飛行場上空で撃墜され、一機が北飛行場に胴体着陸に成功した」とあるのです。

(サヨリ)さらに、その一機から日本軍の武装した兵士が攻撃に飛び出し、手りゅう弾や爆弾で攻撃、米軍との間に戦闘が開始されたと記されていますね。

(カモメ)その結果、義烈隊員は、米軍の二十四機の飛行機を破壊、二六・六キロリットルのガソリンを炎上させ、米兵二十人を戦死させました。

(ウツボ)一方、日本兵の遺体は六十九体あった。日本兵で助かったのは一名のみで、その兵士は日本の三十二軍司令部に報告に行ったとされているが、真偽は不明だ。







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最終更新日  2015.08.14 21:58:02


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