100.永田軍務局長斬殺(10) 巨星永田少将の死により、統制派は、ほとんど空中分解した
(カモメ)有末少佐はヨーロッパから帰って、すぐに青森第五連隊の大隊長をやったのです。(ウツボ)その時同僚に相澤少佐がいた。(カモメ)そうです。その時の話ですが、相澤少佐は部下が病気で入院したとき、毎日見舞いに行ったというのです。有末少佐も自分の部下が入院したので一度見舞いに行ったのです。ところが相澤少佐が有末少佐のところに来て「あなたは部下を毎日見舞いに行かないのか」と言った。その様な人物だったと有末精三氏は記しています。(ウツボ)「日本の曲がり角」(千城出版)によると、昭和10年8月12日午前九時半頃、当時軍事課の政策班長だった著者の池田純久氏が軍事課員室にいると、背の低い将校が靴音も荒々しく、課員室に駆け込んできた。皆の目が一斉にその将校に注がれた。指揮刀を抜き身で引っさげている。(カモメ)斬れもせぬ指揮刀を抜いていたのですね。(ウツボ)そうだね。それがいかにも奇異に感じられた。そして彼は大声で怒鳴った。「局長室が火事だ、火事だ」と。よく見ると、その将校の左腕の軍服が裂けて腕がむき出しになり、白いワイシャツは真っ赤な血に染まっている。池田氏たち軍事課員は棒立ちになった。(カモメ)火事だ、火事だと叫んだのですか。(ウツボ)後で分かったことだが、「局長室が大事だ」と叫んだのが、「火事」と聞こえたということだ。(カモメ)その背の低い将校は東京憲兵隊長、新見大佐ですね。(ウツボ)そう。それで池田氏らが武藤中佐を先頭に局長室に駆け込むと、悲惨な光景が展開していた。永田局長は鮮血に染まって、肩ひじをついて絨毯の上に倒れていたんだ。思いもよらぬことだった。(カモメ)この相澤事件の捜査に当たった東京憲兵隊隷下の麹町憲兵分隊の小坂慶助氏の著書「特高」(啓友社)によると、著者の小坂氏は当時特高主任で曹長でした。(ウツボ)小坂氏は後に憲兵大尉にまで累進した人だ。(カモメ)軍務局長が斬られたとの通報が麹町憲兵分隊にあり、小阪曹長と、青柳軍曹が私服で、分隊長と警務から三人の計六人で三宅坂の陸軍省に自動車で向かったということです。(ウツボ)そこは俺も読んだが、自動車の中で役割分担を決めたんだね。警務主任は現場の保存並びに検視、検証、証拠品の募集。そして特高主任の小坂曹長が犯人を逮捕して取り調べると。(カモメ)彼らが局長室に入ると、茶色の絨毯は血の海となり、永田少将の無残な惨殺屍体が、窓から射し込む八月の陽を一杯に浴びていたと記されています。(ウツボ)そうだね。屍体の傍には犯人のものと思われる軍帽が、血に染まって落ちていたとも。(カモメ)小坂憲兵曹長は、白昼の出来事であり、各室にはあふれるほどいる将校や属官達の手によって犯人はすでに半殺しか、逮捕されているものと、たかをくくっていた訳です。(ウツボ)それは、そう思うよね。しろうとではなく、軍人の集まっているところだから。とっくに捕まえていると思ったのも無理は無い。(カモメ)ところが実際に来てみると、その気配さえも見えない。軍務局課員室をのぞくと、顔見知りの将校連中が、あそこに一団、ここに一団となってコソコソ話し合っていた。(ウツボ)陸軍省の中には、皇道派もいる。下手に動くとあとでやっかいなことになると、おそらく幕僚たちは判断したのだろう。(カモメ)そこで小坂曹長は幕僚たちに「憲兵ですが、犯人は一体何処にいるのですか?」と訊いても、誰一人として答える者はいない。(ウツボ)結局、廊下を通りかかった、属官が高等官食堂の前の医務室の方へ行ったと教えてくれたんだ。(カモメ)そうです。そこで、そちらに行くと異様な姿をした長身の将校が、廊下を無帽で血に染まったマントを着て、右手にトランクを提げ血だらけの左手を胸の辺に上げて歩いてきた。(ウツボ)小坂曹長は犯人に間違いないと思った。(カモメ)すると食堂の廊下から山下奉文少将が突然姿を現したんです。相澤中佐は「閣下相澤です。台湾に赴任してまいります。しっかりやってください」と言って握手した。(ウツボ)そのとき山下少将は「それはご苦労!余り無理するなよ」と言ったというんだ。そして山下少将は平然と階段を降りて行ったと。(カモメ)この会話だけをとると自然な会話ですが、山下少将は事件を知っていたはずだから、ここはおかしいですよね。(ウツボ)まあ、いろいろ奥があるんだろうね。とにかく小坂氏はこのように記しているんだ。だが他の本では、この場面では「相澤、静かにせにゃ、いかんぞ」と言ったと記されているのもある。(カモメ)そのあと、小坂憲兵曹長は相澤中佐をうまく説得して、やっと憲兵隊に連行することに成功しました。相澤中佐はしきりになくした帽子を気にしていたということです。(ウツボ)その帽子は片倉少佐が押収したんだ。ところで、ここにエピソードがある。「秘録永田鉄山」(芙蓉書房)によると、有末精三氏の永田少将の思い出として、「永田さんはよく話の途中に『君、サーベルをガチャガチャやって脅かすか』などど云われていましたから、やはり我々の気持ちとちっとも違わないのです」と述べている。(カモメ)理論的で、冷静な合理主義の永田少将でも、やはり軍人として武力で威嚇する一面は持っていたということですか。理論が破綻したから威嚇に移る訳ですよね。(ウツボ)だろうね。だけど軍人は武力を使うのが仕事だからね。その様な態度をとりがちになるのは当然とも言える。だが、その時はおそらくジョークだったのでしょうね。(カモメ)8月14日、青山斎場で永田軍務局長の葬儀が神式により執行されました。享年52歳です。統制派の巨星永田少将の死により、統制派は、ほとんど空中分解した訳です。(ウツボ)永田の上で輝いていた林陸相もたちまち凋落した。(カモメ)事件後数日たって兵務課長の山田長三郎大佐は怪我をして入院している新見大佐を見舞いに来て、「こんなことになって申し訳ない」と何度もわびたということです。(ウツボ)軍内部の非難は山田に集中したんだ。その理由は「彼は事件のとき、何ら手を施さず、逃げ回っていた」「彼が相澤を阻止していれば永田を殺さずにすんだはずだ」などだった。(カモメ)山田大佐は永田軍務局長の部下でしたが、統制派に組せず、中立でした。中立でも皇道派に近かった。しかも相澤中佐とは同郷でした。山田が仙台幼年学校三年のとき、相澤は一年だった。(ウツボ)それもあるけど、山田大佐は永田局長から左遷されようとしていたんだ。だから止めなかったのではないかと、憲兵はそう見ていたというんだ。(カモメ)それに対して山田大佐は一言も抗弁しなかったですね。結局、山田大佐は事件の責任をとらされて兵器本廠付に左遷させられました。(ウツボ)事件の約三ヶ月後の永田中将(死後昇進)の百日忌が執り行われた日、昭和10年11月20日夜、自宅二階で、山田大佐は自刃した。(カモメ)遺書はあまりにも簡単でした。「永田軍務局長事件当時の行動に関し、疑惑を受くるものありしは、全く不徳の致す所にして、ここにその責を負うて自決す」。(ウツボ)新見大佐も事件後、京都憲兵隊長に左遷された。新見大佐にも「憲兵のくせに永田局長を助けられず、自分も重傷を負った。だらしない」などというものだった。(カモメ)相澤中佐事件の第一回公判は事件の翌年昭和11年1月28日から東京、青山の第一師団司令部内、軍法会議法廷でひらかれました。(ウツボ)そして「相澤中佐に続け」と2.26事件が起きたが、結局、相澤中佐には死刑の判決が出た。(カモメ)昭和十一年七月三日午前四時五十二分、塚本監獄長が「殺人罪により死刑を執行する」と言い渡しました。(ウツボ)そのとき、相澤中佐は遥拝すると、獄舎が割れるような大声で「天皇陛下万歳」を三唱した。(カモメ)相澤中佐は刑務所内の西北隅にある刑場に護送されました。看守長が「処刑の際は目隠しをする」と告げると、相澤中佐は「やらないでください」と拒んだということです。(ウツボ)目隠しをするのは規則だからね。(カモメ)でも相澤中佐はなおも「私にはその必要はありません」と強く首を振ったということです。(ウツボ)そこで看守長はおだやかに「目隠しをしないと射手の方が困るので」とさとすように言ったんだ。それでようやく納得した。(カモメ)相澤中佐は刑場の十字架の形の刑架のムシロの上に正座させられ、その座ったひざをくくられ、両手、頭、胴を刑架に縛りつけられました。(ウツボ)彼の正面十メートル先には銃架が二つ立っている。すでに実弾を込めた射手二人が相澤中佐をねらっていた。(カモメ)歩兵第三連隊の田畑清久少尉と騎兵第一連隊の諸澄栄一軍曹ですね。指揮官は騎兵第一連隊の岩井茂中尉でした。(ウツボ)午前五時、看守が相澤中佐に水を与えた。相澤中佐は少し飲んで「いただきました」と、ひとこといった。そのとき指揮官・岩井中尉の号令が、朝の冷気をつんざいた。「射て!」同時に銃声がおこった。(カモメ)相澤中佐は確実に眉間を撃ち抜かれました。昭和11年7月3日午前五時四分です。(ウツボ)47歳だったね。そのあと、2.26事件の青年将校たちも後を追ったね。(「永田軍務局長斬殺」は今回で終わりです。次回からは「海軍空挺作戦」が始まります)