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2022.10.16
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カテゴリ:書籍
江戸の宇宙論

江戸の宇宙論

 蟠桃が提示した宇宙像では、各恒星の周りに惑星が必ず生まれ、そこには人間が誕生していて、宇宙のあちこちに人間が存在することを当然のように述べているのだ。(246ページ)
著者・編者池内了=著
出版情報集英社
出版年月2022年3月発行

著者は、天文学者・宇宙物理学者で、『お父さんが話してくれた宇宙の歴史』など、一般向けの科学書を多く著してきた池内了さん。
18世紀末の江戸時代、本木良永によって地動説が明確に示され、司馬江漢によってそのイメージが人々に伝えられ、志筑忠雄によってニュートン力学と結びつけられ、そして山片蟠桃が無数の人間が住む広大な宇宙の描像へと想像を膨らませた。

日本では、唐から輸入した宣明暦を800年も使ってきたため、江戸時代には実際の天文現象とずれてしまい、日食も月食も予測することができなくなっていた。渋川春海は幕府に働きかけ、1684年に改暦を行った。八代将軍・吉宗は、さらに優れている西洋の暦法の導入を試みるが成功せず、1754年に土御門家が宝暦暦への改暦したことで、かえって暦が劣化してしまった。そこで、1797年に高橋至時と間重富によって寛政暦が作成された。
1774年に、長崎通詞の本木良永は、日本で最初にコペルニクスの地動説の存在を知った。それを広めようと書物を発行し、その写本を読んで地動説に魅せられたのが司馬江漢であった。江漢は日本で最初にエッチング法によって銅版画を制作しており、その技術を使って地球図や天球図を発行し、啓蒙活動を行った。

長崎通詞の志筑忠雄は、西洋の天文学・物理学入門の文献を『暦象新書』(1798~1802年)として発行し、ニュートン力学を日本に紹介した。忠雄はニュートン力学にもとづく思考実験により、カントやラプラスよりも早く、太陽系形成論を組み立てた。また、人工衛星を「仮星」と呼び、どれくらいの速さになれば人工衛星が実現できるかを計算してみせた。さらに、オランダ語の科学書を翻訳する過程で、引力・求心力・遠心力・重力・分子など多くの物理用語を生み出した。

大坂で大名貸しを営む升屋の番頭である山片蟠桃は、『暦象新書』の写本を読み込み、「宇宙には点々と恒星が分布し、恒星の周りにはさまざまなタイプの惑星が付属し、その惑星には人間が生きている星もたくさんある」という先進的な宇宙像を提示した。

コペルニクス、ケプラー、ニュートンといえば、ヨーロッパの科学革命の嚆矢である。だが、コペルニクスの『天体の回転について』を本木良永が翻訳したのは、その出版から250年も後のことである。
江戸時代の日本人の知的水準は決して低いものではなかった。鎖国をしているから西洋の文化から隔絶されていたというわけでもない。実際、志筑忠雄がケンペルの『日本誌』の附録部分を翻訳し、それを1811年に『鎖国論』としてまとめたとき、初めて「鎖国」という言葉が生まれたのだ。
本木良永が翻訳した西洋科学は、司馬江漢によって図版化され、志筑忠雄によって科学的な裏付けがなされた。そして、山片蟠桃は、オルバースのパラドックスに気づき、無限宇宙と宇宙人の存在にまで想像を広げたのであった。その間、わずか40年――日本の科学革命と言ってもいいだろう。
山片蟠桃は1811年に彗星の観察記録を残しており、それがニュートン力学にしたがって運動している太陽系内天体であることを確認している。西洋からもたらされた書物の内容を仮説として、自ら検証する姿勢は、今日の科学者と何ら変わるところがない。こうした市井の啓蒙活動が、1869年の明治維新をして、わが国の産業革命をもたらしたのだ。






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最終更新日  2022.10.16 13:55:34
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