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カテゴリ:過去ログ
・朝鮮人と日本人 ♯1へ ※呉善花女史の講義を基にしています
◇ 「はじめにに言葉ありき」 3.韓国語に無くて日本語にあるもの「受身形」 これが最初の糸口となった。 女史は日本語を学ぶうちに「受身形」にぶち当たった。 韓国語にはこのような表現法は無く、すべてが「能動態」であるという。つまりは正反対。 この能動態の世界からやって来た韓国人が「受動態」で話そうするとどうなってしまうのか。 女史曰く「身体をくねーっと捻じ曲げて、頭もくねーっと曲げないと、これが言えないんですね」 どうにも身体の置き場に困るようです。女史は、この「受身形」に四苦八苦し、早々に覚えることを諦めてしまう。何も「受身形」を使わなくとも、能動態に変えれば意味は通じるからである。 5年を過ぎた頃、女史が本気で日本人を理解しようと決心した時に、このことを思いだした。「この受身形にヒントがあるのではないか」と。 「受身形」の正体 ・(受) 「皆さんに見られて、恥ずかしいです」 ・(能) 「皆さんが見るから、恥ずかしいです」 どうでしょう、ちょっとヘンな感じですね。次の例を見てみましょう。 ・(受) 「あなたに怒られて、気分が悪いです」 ・(能) 「あなたが怒るから、気分が悪いです」 女史は、受身形を使うときに、身体や頭を捻じ曲げないと使えないと言っていましたね。何故だか解りましたか? 「これは相手側に立たないと使えないものなんです。身体を曲げないで言おうとするのだけれども、頭だけでも曲げないと言えない。・・(略)・・この受身形を使うにつれて、気持ちのあり方が正反対となり、段々と落ち着いて使えるようになりました」 「責任転嫁を相手にするのではなくて、常に自分側に持ってくれば、これが上手くできるのです。極端に言うと、自分を反省していれば上手く使える。とにかく(悪かったー悪かったー)と反省していれば、これをスラスラ言えるようになるんだと。そう言えば、日本人は反省好きだと(笑)」 考えてみると、日本人はこの「受身形」を至る所で使っていますね。 ※後で飲もうと置いておいたコップの水が無くなって・・・ 韓「あれ!誰が飲んでしまったの?」→「勝手に飲んだヤツは誰だ!」 日「あれー?飲まれちゃった」→「もっと自分の傍に置いておけばよかったかな?」 ※高速道路で走っているときに、他の車が先に行くと・・・ 韓「あらー、私の車を追い越した」→「何で追い越すんだよ!」 日「あらー、追い越されちゃった」→「モタモタしてたからかなあ?」 女史「韓国語だと、常に相手に責任を持っていき、自分は全く悪くなくなります。例えば約束の時間に遅れたときに、韓国人は絶対に反省しない、何か言い訳しようとするんです。日本人は、とにかく約束だったのだからと、まず謝り、言い訳を言うも言わぬも二の次ですね。中国人、韓国人は絶対に自分の責任にはしたくないんですね、自らの反省は絶対に出てこない」 「この受身形を使っていると、だんだん思考が変わり、穏やかな気持ちになってゆくのです」 女史は、日本人の「反省好き」を、次の例で笑ってしまいます。いくらなんでも相手が悪いだろうと。 ・「どろぼうに入られた」 なるほど。でも、コレ普通に使いますね^^。更に・・ ・「女房に逃げられた」 更に女史は、日本人の反省好きを発見します。 「会社で、ある日(反省会に行こう)と誘われて、仕事でクタクタになっているのに終わってからも反省させられるのか、と気を重くして行ってみると、誰も反省しているように見えないんですね、みんな嬉しそうに(カンパーイカンパーイ)と飲んでいるだけなんです」 そういえば「反省ザルの次郎」というのもいましたね^^。 女史の講義の中で、韓国語に「受身形」が無いというくだりを聞いていて、最初に頭に浮かんだのが「はじめに言葉ありき」という言葉でした。これは、聖書のヨハネ伝、第一章、第一節にある言葉ですね。 神が「光あれ」という言葉を発すると闇から光が生まれ、光から天地・海・生命・人間が生まれます。世界のはじめは「言葉」だったんですね。いや、私はクリスチャンではありませんが、この言葉が好きなので覚えていました。 人は「言葉」もしくは「言葉に順ずる何か」が無ければ、考えたことを表現・伝達ができませんね。その言葉の限界が、思考の限界であるともいえるでしょう。 しかし、言語に「受身形」が無ければ「反省」という概念が持てないのでしょうか。持ちにくいであろうことは、上記の例を見ていると想像ができますが、「反省」という言葉はあるわけです。ですから、韓国人が反省しない民族であるということにはなりません。 ですが、韓国人にとっての「反省」の多くは、相手に向けられる言葉のようですね。「謝罪しろ」がこだましてます(笑)。 女史は日本語を勉強しながら、この「受身形」を体得することで「だんだん思考が変わり、穏やかな気持ちになってゆく」ということを言っていましたね。今からじゃ無理なんでしょうか?韓国語に「受身形」を導入していただくことは(笑)。 ここで一つ疑問が湧いたのですが、外国の本を韓国語に翻訳すると、その段階で「受身形」が消えるのでしょうか?それは、原作者にとっても口惜しいことでしょうが私も口惜しい(笑)。翻訳者が韓国人であるなら、何か感ずるものは無いのでしょうか。 日本に滞在中の韓国人の皆さんへ、必ず「受身形」を体得することをお奨めしたい。そして、祖国への土産にして欲しい。必ず、韓国の未来への力になると思います。最初は身体がくねーっとするでしょうが、後でいい気持ちになりますよ~^^。 それから、日本の教育について、何より国語を優先させて欲しいですね。「読み書きソロバン」だから、電卓ではなくてソロバンも。 もうずい分以前のことになりますが、「ら抜き言葉」が氾濫して、とうとう正式に認められてしまったときに、私を含めて周りにいた多くの人が「何でだ!」と怒ったものでした。時代の移り変わりで、言葉も変わって行くものだと、識者たちは笑っていましたが、そうでしょうか。口語として流行するのは、いた仕方が無いとは思いますが、教育の現場に於いても本来の日本語が崩れていくことは、危険であると思います。 韓国で漢字が廃止されたこと、「受身形」が無いこと、これは憂慮されることですが、日本語についても他人事ではありませんね。 日本語を話す韓国人が「受身形」を体得しているかどうかが、ひとつの目安になるかと思いました。 次はいよいよ、歴史・地政学・自然環境から影響を受けた「感覚・感性」の違い。これは、生き方そのものへ繋がる価値観です。 字数のため、次回へ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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