平家物語の中の寂光院
先般、古寺巡りで訪れた京都大原の「寂光院」_ここで建礼門院(平清盛の娘・高倉天皇の中宮・安徳天皇の生母)のことを書きました・・・建礼門院は壇ノ浦の戦い(1185年)で負け、入水したが助けられ、その後に出家して大原の寂光院に入りました。ここで安徳天皇の菩提を弔う生活を送ったとのことです。寂光院の庭で「汀の池・千年の姫小松」は平家物語の当時のまま・・・そこで「平家物語」を読んでみました・・・寂光院は「平家物語灌頂の巻」に書かれていました。建礼門院は出家して吉田の僧房にいましたが、1185年7月9日の大地震で崩壊した為、9月下旬に大原の寂光院に入りました。翌年(1186年)、4月下旬に後白河法皇(高倉天皇の父・建礼門院の義父)が建礼門院に会うためお忍びで寂光院に出かけました。寂光院で法皇が「姫小松」を観て「池のうきくさ 浪にただよい 錦をさらすかとあやまたる 中嶋の松にかかれる藤なみの うら紫にさける色」を詠みました。建礼門院が山へ花摘みに出かけているときに訪れた法皇は、女院が戻ってくるのを待っていました。しばらくして、上の山から、濃い墨染めの衣を着た尼が二人、岩の険しい崖道を伝って、たどたどしい足どりで下りてくるのが見えた。法皇が、「あれは何者か」と尋ねると老尼(阿波の内侍)は涙ながらに答えた。「あの、花籠を肘に掛け、岩躑躅(つつじ)を取り添えて持っていらしゃるお方が女院です・・・」・・・女院は・・・今、このように変わり果てた姿を、法皇にお見せすることはなんとも恥ずかしい、このまま消えてしまいたい、と心の底から恐縮したけれどもどうしようもない・・・<読んで・・・>寂光院の庭で、実際に起きていた法皇と女院の対面の様子が眼に浮かんできました・・・平家物語は12世紀末の源平の争乱。平家一門の盛衰と愛と死を描いた一大戦記。京都・鎌倉・九州・四国と大量の兵士が移動し戦うさまは、移動手段が無い時代を考えると想像を絶する時代であったと思う・・・「平家物語」