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草莽の記    杉田謙一

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seimei杉田

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2012.02.22
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河村市長が圧倒的に正しい。ぜひがんばっていただきたい。以下のメールを名古屋市に打っておきました。

 

なぜに蒋介石、毛沢東は生前一度も南京事件に触れなかったのか

 南京入場に際して中国政府は三十万以上の虐殺があったと主張しておりますが、当時の安全区において確保されていたのは二十万人。後には二十五万人まで増えてきているとされ、また安全区国際委員会のラーべ委員長は公文書第一号(十二月十四日付け)にて「貴軍(日本軍)の砲兵部隊が安全区に攻撃を加えなかったことに対して感謝申し上げる」と書いている。そこにおいて三十万の虐殺があったとはとても考えられない。その安全区に逃げ込んだ一万に近き兵士が便衣兵であるがその摘発で三・四千名の処罰をしたと判断されるが、戦時のこと、充分な調査がされたか否かは不明なるも、戦時法に違反するものではない。

 中国軍司令官の逃走後の無秩序な同士討ちの結果多くの中国人兵士の死者が出たのもまた戦闘行為にて軍人が多く亡くなったなどの悲惨な結果には胸迫るものがあります。

 しかし日本軍が虐殺をしたとの指摘は決して当たらない。

 蒋介石毛沢東とも生前は南京虐殺に一度も触れていず、また南京入場後九年もたって突然東京裁判にて事件がだされた感がある。以前、衆院内閣委員会で質問に立った戸井田とおる議員による南京事件質問にて、きわめて重要な事実が明らかにされました。それは国際連盟第十八回総会(昭和十二年八月十三日から十月六日まで)にて南京広東に対する《日本の空爆を非難する案》を中国が提訴し、委員会総会で採決されている。翌十三年一月二十六日から第百回期国際連盟理事会が開かれ「支那を支援する決議案」が採択されていた。しかし、にもかかわらず、支那代表顧維きんによる南京事件提訴さえなされなかったとの説があったのでしたが、このときの資料開示の結果わかったこと、それは実際には、中国代表がこのとき国連の行動要請をしていた事実です。しかるに中国による、あまりの荒唐無稽のプロパガンダに理事会ですら、さすがに一笑に付し、無視した事実であります。

 演説の中で中国は「南京における旧日本兵による無差別殺戮女性への暴行市民殺害がなされ米国教授の報告や書簡にもとづく数として二万人が虐殺され数千の女性が暴行された」と主張。それに対して同理事会は、申し入れを拒絶。当時、日本の軍事行動を「非難決議」として採択した親中的理事会すら、中国が訴える「南京虐殺」を、政治宣伝と見抜き、却下した。対日非難決議にもその文言は入らなかった。これらの事実に基づき考えられるのは「南京虐殺論」は中国の政治的プロパガンダに過ぎないと考えるべきではないのではないでしょうか。それを反日に傾いていた国際連盟ですら一笑に付した。なぜなら南京には当時何百人もの全世界からのマスコミが入っており、虐殺に当たる事実はないからと判断するのが妥当ではないでしょうか。もし万を越す虐殺がほんとになされたとしたならば、毛沢東・蒋介石が言わぬわけはありません。

 

何百人のマスコミが入っていたのに写真一つない矛盾。

 フィルム撮影をしたマギー牧師も東京裁判にて残虐行為を証言していますが「私が見たのは一人だけ」と証言。揚子江岸の下関で死体を見たとあるが何万ではなく三百から五百と言っています。それがいかなる理由でなくなったか(戦闘での死か他の理由か)。死体があったからといって、まさか虐殺と言えるわけもありますまい。

  東中野氏の詳細な写真分析で中国の写真捏造はすっかり明らかになっています。                            

マギー氏のフイルムには三十九の光景を映し出しながら、虐殺を示すものは何も映し出されていません。病院の様子や数体の死体の情景もありますが、死体があるから虐殺だと言う中国の論はまったく理論になりません。戦闘にてなくなった兵士が虐殺であるといえるはずもないでしょう。

 そもそもマギー師は東京裁判にフイルムを証拠に提出していません。これを最初に虐殺論に利用したのが国民党顧問ハロルド・ティンバーリ記者でした。字幕説明を加えて作り変え加工編修しなおしたのですから、証拠になりえないのは明らかでしょう。裁判での反対尋問で、永く南京にて日本の不法行為に目を光らせていたマギー師が実際目にした殺害は一人だけと証言。中国政府の言う数十万の虐殺の主張はどうなのでしょう。ティンバーリは国民党宣伝部が工作員として使っていた人物です。べイツ師もフィッチ師もティンバーリ師とともに「宣伝本」を書いた人です。

 ドイツ大使館の公文書綴りが発見されたといわれるが、そのジョン・ラーべなるジーメンス社南京支社長の「三万の死体」説も伝聞記事に過ぎず、南京特務機関丸山進氏によれば埋葬遺体は一万四・五千。戦闘での死体であるという。貴殿の言われる虐殺証拠とはなりえぬものです。

 他誌掲載写真も東中野教授はじめ、研究者によって合成・改竄されたものであると結論づけられています。

虐殺があった証拠写真映像があると中国政府や南京市が主張されるならば、納得できる資料・根拠を提示すべきです。

 

 私は南京での不法行為はきわめて少なく、両国にとって不幸な歴史ではあるが虐殺などと非難されるものではなく通常の戦闘行動の結果とみなされるものであると考えます。

ちなみに入場に関わられた方が岡崎にお元気でお見えです。太田さんといわれますが、その方のご意見は、軍の名誉にかけて虐殺とされる行為はなかったとされるものであります。

 

             

とりあえず南京事件について私の見解を申し述べます

 

 南京事件の発端は第二次上海事件。十二年七月七日には盧溝橋事件が起こり、これが当時北支といわれた中国北部に拡大し、さらに中部に飛び火し、上海での戦闘に発展。渦中を根拠地にする蒋介石としては北まで直轄軍を遠征するのは不利であり上海に派兵。五年前の第一次上海事件後、日中間で停戦協定が結ばれ、非武装地帯が造られたが、この地に中国はドイツ人の軍事顧問団をいれトーチカ陣地を築いた。ここには日本は海軍の陸戦隊が数千程度しかいない。

 中国兵ははじめ二十万後八十万。そして八月十三日、日本の陸戦隊の本部に攻撃がかけられたのだった。

 わが国は在留邦人を保護するため応急動員をかけ第十一師団と第三師団の二個師団を八月末から上海に送り込んだ。しかし上海の防備は堅固にして被害続出。第九第百一第十三師団の増派となる。

 逐次投入の不利な戦略により被害続出。十一月になって十六師団を投入。背後を突き日本から新たに杭州湾に三個師団を投入。敵の退路を断った。結果中国軍は総崩れとなり、首都ナンキンに向けて退却を始めた。

 日本軍は当初南京を攻める予定はなかったのでしたが、中途半端な停戦では禍根を残す。決定的な勝利を収むべしとの国内世論に押されて最後には参謀本部も押し切られて南京攻略が決定される。

 予定された行動でないため、弾薬はかろうじてあっても食料がない。糧を現地で調達する。略奪するなど悲しむべき状態となる。方や蒋介石軍は南京包囲を恐れ南京放棄論と抗戦論が戦わされたが、唐生智の抗戦論を採用。彼を司令長官として残し、蒋介石は敗走。

 逃げられない人たちは城内に残る。難民も流れ込んでくる。外国宣教師たちの手により、安全区が設定された。  

 南京市長、馬超瞬は残留市民二十万人に対し国際安全区に移住すベしと命じた。

 日本軍は認めなかったものの、これを尊重し、攻撃一つしなかった。

 このことはラーベ委員長より感謝の書簡が出されていることでも明白である。南京市民は安全が確保されたのである。

 十二月十日頃から本格的な南京を巡る攻防戦が始まったのであった。十二月十二日には激戦の末、日本がほぼ南京城を包囲できた。

 その際中国側は南京郊外に火をつけ農家などを燃やし撤退した地域を徹底して破壊した。この焦土作戦遂行は日本軍でなく中国軍であることに注意したい。

 司令官の唐生智は十二日夕方には真っ先かけて長江をわたり逃げてしまったので指揮官なき軍は全滅に近い被害を受けた。

 逃げる味方兵を城門の上から機関銃で撃つという大変な同士討ちが起きた。は江門付近は死体の山だったと言う。これを「大虐殺」の証拠とされてしまっているが、その批判は全くあたらない。

 揚子江を筏で逃げる中国兵は途中筏がばらばらにない溺死。逃げ遅れた何千人の兵は安全区に逃げ込み便衣兵となる。国際法で禁じられている便衣兵(ゲリラ)と認定されてつかまる。

 本来はこの便衣兵は安全区の管理者が武装解除させ、戦争が終わるまで置いておくか、捕虜として引渡しの義務があるのであるが、人数や能力からそれができないのみならず、敗残兵をかくまりたい、保護したいとの思いがある。日本との間にトラブルが起こり、反目が起こり、日本軍に不利な報告をすることとなる。結果敗残兵の掃討に強引さが出て、かなり杜撰な餞別となってしまったと考えられる。兵と誤認されたケースも出たであろう。  

 便衣隊の処刑はおよそ三・四千人であろうと推測される。

 しかしこれはあくまで戦闘行為。虐殺には当たらない。手榴弾など武器を相当数隠し持っていたし反攻のうわさで持ちきりであったため、戦闘目的であると解釈されても致し方なきこと。公開にて処刑したことが「虐殺」の宣伝文句に利用されてしまうのである。兵を捕虜として扱うにはハーグ条約その他で一定の資格があるとされている。投降し、かつ受け入れ側が捕虜と認め捕虜収容所に連行して初めて捕虜の扱いを受ける。

 逃げ惑う兵が揚子江を渡りきれずに逃げ遅れ、幕府山の山麓に吹き溜まりのように集まっていた。捕まえたのは第十三軍の六十五連隊。しかし一万四千七百七十七人の武装した敗残兵を捕虜とできるわけがない。自軍より十倍ほど多い捕虜を扱えるわけがない。

 殺戮すべきを、偲びず、十六日十七日の二回にわけ揚子江の中洲に逃がそうと連行する途中、捕虜暴動が起こりそのうちの相当数を殺してしまったのであったが、明らかに故意の殺戮でなく突発事故である。

 これらはしかし虐殺では断じてない。戦闘行為である。

 南京市内の不法行為はほとんどない。ラーべ委員会の詳細な記録によれば、南京市における殺害事件は四十九件。暴行事件四十四件となっておりそのうち一件は明らかに合法とされている。

 無論日本も勝つか負けるかの決死の戦闘の真っ最中のこと。犠牲者も数万を数える悲惨なものであった。しかし断じて何万もの不法虐殺をしたなどとあらぬキャンペーンを許してはならないのは明らかである。

 以上の考察の結果、南京での不法行為はきわめて少なく、両国にとって不幸な歴史ではあるが虐殺などと非難されるものではなく通常の戦闘行動の結果とみなされるものである。

 






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Last updated  2012.02.22 21:43:43
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