2002年9月の編集後記(No. 99):伊藤整『女性に関する12章』と女子教育の重要性
女性に関する十二章 [ 伊藤整 ]価格:1,650円(税込、送料無料) (2024/3/20時点)楽天で購入『女性に関する12章』(中公文庫 絶版)は私の座右の書である。この15年、悩んだときには必ず読み返してきた。これほどすぐれた女子教育の本があるだろうか。女性の関心事は「あの人は私を愛しているのかしら?」、そして悩みは「あの人は私を愛していないのでは?」 しかしそう言っている当人が自分は愛しているつもりで、思いこみの世界に安住していることも多い。この思いこみがどれだけ女性を不幸にしているか。「私がこんなに愛しているのに」の「のに」がくせ者。「愛」を絶対視し、「自分だけが一定した心構え」を持つ危険性を伊藤整は丁寧に説きます。第4章「妻は世間の代表者」では「愛のない所には結婚はあり得ない、という遊牧民系統のヨーロッパ的思想が入ってから、一層日本の女性はこの問題を気にするようになりました。『愛』などという希有な宝石が、一家庭に一個ずつヘッツイのようにあるものですか、と言いたいのが私の本音ですけれども…」と軽くジャブ、そのあと、「『愛』というものが存在して結婚するものとすれば、愛は、結婚後3日目、3ヶ月目または3年目で消滅するのが普通です」と完全にノックアウト。 「人は愛によって結婚すべきだという近代的な結婚観が、明治以来わが国にひろめられてから、ほとんど総ての人妻は、この絶望感に襲われながら、生活し、悲しみながら死んでいったように思われます」。そのあとに、フロベールは『ボヴァリー夫人』で女性が夢想的な情緒を生活の中で実現しようとして結婚し、それが満たされないままに、その情緒を与えてくれそうな、よその男に近づき、次々と情緒を追って恋愛を重ねて行って、破滅する一生を描いた、と説く。こんな牽制球を投げるとは、さすが文学者。 先日、雑誌『アエラ』を読んだら、夫と別れたいが経済的に別れられない妻の記事。それだけが淡々と載っていた。どうしたらいいんだ? 『女性に関する12章』が書かれた1953年(昭和28)から変わらぬこの現実。でも伊藤整はちゃんと処方箋を用意している。そこが垂れ流しのマスコミとの大きな違いだ。巻末の「結びの言葉」の章から以下のような3つの処方箋を紹介します。症状に合わせてお使い下さい。「愛の実体を追求しすぎることは、ラッキョウの皮をむくようなもので、ムキすぎると無くなってしまいます。愛というものは、それを分析したりヒンムいたりしないで、栄養を与え、暖かい土の中に埋め、水分と日光とをやって育てるべきものであります。そうすると、初めは何の実体もないと思っていたものが、芽を吹き出し、花を咲かせ、実を結ぶでしょう。」 「理性的に生きることと、本能的に生きたりすることの、両方ともやれるように自分を作ることです。その時によって、この2つのうちのどちらかを生かして使える人もまた、生活の熟達者であり、人間らしさを保っていける人のように思われます」「私たちの足下には常に深淵が口をあいているようなもので、女性は常に、この旦那さま、この愛人と別れる日がいつ来るかもしれない、と考えるべきです。愛が人間の全部ではなく、男女の愛や肉体は永続するものではありません。そしてそれを一度よく考えてからそれを忘れて、その日、その時の生活の楽しさを十分味わって生きることがよい、と思われます。(中略)明日には明日の愛があります。今日は今日の愛で満ち足りているべきです。」