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与え続けること と 工夫すること

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2012.04.17
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カテゴリ:家の中で。

曇り空だったので、


きょうはこのまま雨かしらと思っていたら、


日が射してきました。


しあわせ!



来週の水曜日は母の一周忌です。


去年のいまごろは、たぶんあっちの世界とこっちの世界を行ったり来たりしていたような


状態だったと思います。


あのとき、地震のあとだったので、


鎌倉の病院にお見舞いにいきながら、


今同じ大きさの地震がきたら、きっと病院は津波にのまれるだろうなって思ってました。


海からは少し離れていてちょっと高いところの病院でしたけれど。


311があって、


3月22日、南の方に結構放射世物質が飛んできたという日に、


母は病院に検診にいき、薬をもらってきました。


午前中で、いつもになくすいていたそうです。


先生と普通に話をし、薬をもらい、家にもどってから、


お昼を食べたくない、、、と感じ、


だんだん変だと思ってきたそうです。


もろに吸っちゃったんだなとその後に思いました。


そして夕方遅くに、たぶんお腹が変だと思ってトイレに行ったんでしょう。


便もはじめは出たんでしょうが、下血して止まらなくなったそうです。


大正生まれの我慢強さというか頑固というか、


それならふつうはすぐに救急車でしょう。


けれど、ずっとトイレに座っていたそうです。


もともと貧血の気があるのに。


去年の一月の下旬に親戚周りをしてそろそろ、、、なんていっていたそうです。


ですから、もうほんとにそういう時期だったんでしょうね。


覿面に来てしまいました。


わたしが息子の卒業を報告するのに電話をかけると、


弟がでて、母の具合がわるいと、、、、


あわてて、実家に飛んでいきました。


夜は何も食べなかったけれど、私のできること、レメデイーを溶かしたものを


口の中にスプレーしてあげました。


母は持病で心臓の病気と腎臓の病気がありました。


よく朝、今考えるとそれが最期の家での食事でしたけれど、


おかゆを作ってあげると、母は食べてくれました。


あのスプレーのおかげでしょうか?


そしてもうすこし食べたいと食欲もでてきたようでした。


少しうれしくなりました。


母は病院にはいきたくないといっていました。


それはそれでよいのですが、


どうもふとんに垂れ流し状態のようで、衛生面が心配になってきました。


なんとか、トイレにいかせなければ、


その間にふとんの様子をみなければ、


弟は無理といいましたが、


私は絶対に起こしてトイレにいかせるという気合で、


力の入らない母を何とか起こして、立たせ、弟と二人でトイレまで両脇をかかえて、


トイレに座らせました。(洋式はいいです。昔の汲み取り式ならこうはいきません。)


そして掛け布団をはぐと、、、、、大変!


ふとんを変え、シーツをかえ、


そして母を風呂場につれていき、きれいに下半身だけは洗い流し、タオルで拭いて、


布団に寝かせるときに、服をきがえさせたのですが、


お腹がちょっと膨らんでいるのに気が付きました。


これはまずい、、、腹水がたまってきている。


弟一人の手にはおえないと思いました。


いきたくないという母を説得して、とりあえず見てもらおうと。


昨日の朝いったばかりだからと、母。


なんとか洋服をきせて、


これもいまおもえば、かかえながらも最後に母が歩いたときでした。


なんとか車にも乗れました。


病院に電話して、連れて行くことを伝えてありました。


車椅子をお願いして、それになんとか乗りました。


あとはもう看護婦さんがやってくれました。


母は入院しました。検査もいくつかしたようです。





母にはなんとか、安定してもらわないといけない事情がありました。


翌週の金曜日はどんぐりの交流会です。


地震後、開催するかどうするか悩みながら、開催続行することに決めました。


そんなわけで、検査結果を弟からききながら、またスプレーを作ってもっていきました。


母、スプレーをみると口をあけるという反射がだんだん身についてきました。


最初はいやだっていってたんですけどね。


交流会、どぎまぎでした。


結局、スプレーがきいてくれたようで、なんとか平穏に時間が過ぎました。


無事、終わってほっとしました。


その後2回くらい、危なかったのですが、


また、あらたなスプレーを作って乗り越えました。


息子の誕生日から一か月以上に日が過ぎました。


いよいよ痛いということで、麻酔のパッドを張っていました。


いくら自己治癒力を動かそうとしても、生命エネルギーがなくなってしまったときは


レメデイは作用しません。


そのかわり、魂の行くべき道を示すようです。


母はだんだんもうろうとして、もう話ができないくらいでした。


しんりがみえる、とか


ほしがみえる、とか


そんな話を一方的にしたのが亡くなる前の土曜日だったか。


そして月曜日に静かに逝きました。


父のときとは違いました。


母の看病をしていて、人は少し元気方向に行くと、いう言葉、


具合が悪くなるという言葉というのがあるとわかりました。


いう言葉で容態がわかるのです。


看護婦さんが、あるときから、クリームを母の足にぬるのです。


肌がかさかさするからと。


その足はむくんでいました。


その足のつめはさいごにはなくなっていました。


ミネラルが使い果たされたんでしょう。


点滴というものだけは入れていましたから。


それを解毒するのに体は最後の最後まで頑張っていたんですね。


足の指の指紋があるところに、なにかついていました。


らせん状でした。


飛び出ていたという方がよいかもしれません。


誰もこないときにちょっとみてみたので、おまけに携帯で撮影もしました。


あわててとったので、よくわかりません。


目には焼き付いていますが。


あれは、タコとかうおのめとかそういうものだったのかなと思います。


とびだしていたってことは、もう住めなかったのでしょうかね。


母は静かに逝けてよかったです。


母はもう少し生きられたかもしれません。


地震がこなかったら、母の誕生日の5月30日まで生きられたかもしれません。


けれど、手をあげて、若いひとたちより私が先にと、


逝ってくれたのでしょう。

 
大正の人は多くは語りません。


みんな飲み込んでいたと思います。


母の精神力の強さは、


大正の人の精神力の強さは


わたしにはまねできないです。


わたしにとって、やはり母の存在自体が偉大です。


関東大震災と第二次世界大戦とくぐりぬけてきた人です。


横浜の空襲のときの話を一度ききました。


人のやけたにおいがいまでも鼻についているといってました。


空襲の時に生き残ったのです。母の両親も生き残って疎開したそうです。


運が強かったんでしょうね。


空襲がはじまるときに、母は電車にのっていて、横浜から、一つ先の保土ヶ谷に向かっていたそうです。


保土ヶ谷の会社に努めていたそうですから。




母には100歳までいきてほしかったです。


けれど、薬漬けでしたから。


心臓はきっと薬で悪くなったのではないかと思います。


あるとき、両足がぱんぱんで、薬をやめるようにいいました。


やめたら、もとにもどったのです。


でも、やっぱりまたはじめちゃうんですね。


しょうがないとは思いながら、


どうすることもできませんでした。



それでも、94まで生きました。


父の13回忌も終えました。


兄の50回忌(だったか?)も終えました。


すごい人です。







































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Last updated  2012.04.17 12:55:15
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