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カテゴリ:郷土の歴史
台風18号が午後2時ごろ郡山市のすぐ東を北東に向けてぬけていきました。 その約3時間後くらいに阿武隈川の流れを確認に出かけてきました。 濁流ではありましたが、まだまだ余裕がありましたが、1時間ほどして帰るときにチェックしてみましたら、川の水かさが増えていることがわかりました。1時間で約50cm位、水かさが増していたのです。河川敷に建ててあった看板が最初見たときに比べて水に沈んでいたので推測できました。 その時点では堤防まで約5m位の余裕がありました。 このまま1時間に50cmのペースで水量がアップしたら10時間で定量となってしまうなぁ~。 台風通過の翌日に水が出ることもあるので、雨がやんだとしても多少の心配がありました。 翌17日朝、再度阿武隈川に行きましたら、川から離れた午後6時時点から約50cm位水があがったのが最高だったようです。 たのしみは いつもと違う 散歩道 歴史の小道 目にとめたとき 阿武隈川と笹原川の合流地域を散策していましたら、芭蕉小道なる石碑を発見しました。 まだ比較的新しく設置されたものです。石碑には芭蕉が奥の細道を歩いて320年ということで往時をしのんで建てたというものでした。 私は旧国道を歩いて来たと思い込んでいたのですが、曽良の旅日記の記述から「しんばし」を渡ったようです。 守山 より善兵へ馬ニテ郡山(二本松領)迄送ル。カナヤト云村へかゝり、アブクマ川ヲ舟ニテ越、本通日出山ヘ出ル。守山ヨリ郡山ヘ弐里余。日ノ入前、郡山ニ到テ宿ス。宿ムサカリシ。 この石碑から気が付いたのですが、奥の細道は旧国道だとばっかり思っていましたが、奥の細道の「しんばし」を渡ったということは、奥の細道は今の旧国道ではなかったということです。 曽良日記により320年前より 守山 金屋 日出山 の地名はあったことがわかります。 また旧暦の1689年(元禄2年)4月24日は新暦ですと1689年6月11日になります。 旧暦を新暦に変換 するツールがネット上にあります。便利ですね。 白河の関を越えると、歌いながら田植えをするという、実に趣きのある光景が目にとまった。これは、旅に出て最初の風流な味わいであることよ。 風流の初やおくの田植うた 須賀川到着の夜、等躬宅で催された芭蕉、等躬、曽良による三吟歌仙の発句。元禄二年刊、等躬編「葱摺(俳諧葱摺)」にも、本句を挟む句文が記載されている。 陸奥の名所名所心に思ひこめて、先関屋の跡なつかしきままに、旧道(ふるみち)にかかりて、今の白河も越えぬ。やがて岩瀬の郡(須賀川は市制以前、岩瀬郡の内)に至りて、乍単斎等躬子の芳扉を扣(たたく)。彼陽関(中国の関門。ここでは白河の関のこと)を出て、故人(旧友)に逢なるべし。 風流の初や奥の田植歌 (「葱摺」) この「風流の初や奥の田植歌」の句碑は白河の関にも建っているのを見たことがあります。 しんばし歩道橋 小学校のすぐ西隣なので、歩道橋です。この歩道橋の西に車の通れる橋もかかっております。 現在では、橋の向こうには東北新幹線の高架橋がかかっています。 ◆奥の細道の現代語訳サイトはないものか検索してみましたらありました。 こちら「奥の細道文学館」をご覧になってみてください。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013/09/18 08:45:29 PM
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