カテゴリ:読書録
ミヒャエル・エンデの『モモ』を無性に読みたくなって、結局明け方まで貪るように読んでいた。
『モモ』は、現代社会を痛烈に風刺した児童文学だ。 話の内容をかいつまんでいうと、とある街にあるとき「『時間貯蓄銀行』に貯金をしないか?」と声をかける灰色の男たちが大人たちを訪ね歩く。大人たちが普段無駄に過ごしている時間を「貯蓄」し、それに対して利子を払う、というのだ。 介護施設に居る母を見舞うことや、仕事中にするお客さんとの会話…そういった日常にあるありふれた時間が「非効率」だとして、それらの行為をやめて、貯蓄することが良いことだというのだ。 そして、いつしか大人たちは貯金をはじめてゆく。すると大人たちはあくせくして、仕事では必要以上のことはせず、無駄なおしゃべりもなくなり、いつも忙しそうに歩くようになり、街全体がだんだん無機質になっていく。 これをやめさせようと主人公でホームレスの「モモ」が灰色の男たちが所有する『時間貯蓄銀行』の金庫に蓄えられたみんなの時間を取り戻そうとする、というストーリーなのだ。 私はこれを読んでいて灰色の男たち(=時間泥棒)は、現代の「効率主義」のメタファーだなぁと感じている。 少し前に流行った「グーグル化」とか「カツマー」といったものもそういう側面が多少あると思うのだけれど、日常からムダだと言われるものを一つ一つ排除して残るものは何なのかな、と思う。 お金を得る代わりに、何かを節約する代わりに、何か本当に大切なものを喪ってしまうこともあるんじゃないか、なんて思う。 私は日常のちょっとしたコミュニケーションの時間ってとても大事だと感じている。オフィスの中で違うフロアの女性が、紅茶が好きだと行ったら、お気に入りのティーバッグをいくつか持っていって「これも美味しいよ」と話しかけることも好きだし、電車の中で子どもがこっちを見ていたら話し掛けたり、あやすことも好きだ。 効率化を考えれば「仕事で関係のない人に何かをあげることはメリットがない」のかもしれないし、電車の中ではiPhoneでニュースを読んだり、PCを立ち上げて仕事をするのが最善なのかもしれない。 でも、赤ちゃんをみてホッとするとか、アンバーの照明の下でお酒の入ったグラスをきらきらさせながら呑むのは、私にとってはぬくもりある、とても大切な時間なのだ。 そういう時間を排除して、たくさん仕事をして、何でもかんでも早く片付けて、一体その先には何があるのだろう? 遊びとかムダを排除すれば、人の心は機械のようになり、きっと余った時間でまたお金を稼ぐために必要な「次の効率化」をめざずだけだろう。 そんなきりのないことを続けて、どこに行きたいのかな。 他人に賞賛されることはもちろん素晴らしいし、仕事を早く片付けられるのもすごいことだ。でもそこには「自分が豊かさを感じる」という視点よりも「他人によく思われたい」という意識がまず先にあるような気がする。 人生はもちろん各人の好きに生きればいい。だけれど少なくとも効率的なことを追求することで、自分の心の中に「天国」(≒安らぎとか楽しさとか、おかしみ)は得られるのかな、と思う。 『モモ』は今から30年以上前に書かれた作品だが、当時の時代背景がこうだったのか、それとも未来を意識して描いたのかはわからない。でも、少なくとも現代の哀切が鋭く切り取られているお話だから、私はこの本を何度も何度も手にとってしまうのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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