足利事件再審開始
足利事件の菅家利和さんに対する再審が、宇都宮地裁で開始された。と聞いて、えっ、まだ決着してなかったの?と思ったのは、僕だけではないだろう。手続きと言えば致し方ないが、結局、誤審の責任は誰にあるかを決めるべく、公開処刑をしているようだ。初日の21日は、取調べ中の録音テープが流された。検察が持っていたのなら、有罪とするに足る内容だと思っていたから保管していたのだろう。しかし、今この段階で聞きなおすと、無実の罪を認めさせられる菅家さんの、無念の情だけが伝わってくる。最初の自白に至るまでの、警察での取調べの様子も記録として残すべきだろう。取調べ可視化問題を、民主党は掲げていたはずだが、どうなっているのか。小沢資金問題で、秘書が3人逮捕されたが、今も強引な取調で自白を強要されているのかと思うと恐ろしい。話しはそれるが、小沢問題の報道の仕方が、新聞・テレビとラジオ・ネットではかなりスタンスが違う。新聞・テレビだけの情報だと、巨悪小沢に正義特捜が闘っているイメージだが、ラジオのコメンテーターやネットの有識者のブログなどを見ると、完全な検察の暴走なのだ。検察で指揮を執る佐久間某なる人物が、過去に「福島知事汚職事件でっちあげ」などの数々の事件捏造をしてきたかも暴かれている。昨年、はでなキャメルのコートに身を包み、西松建設に踏みむ様子がテレビで映し出された時、目立ちたがりの危ない奴に見えたが、やはりそういう人物らしい。本当を言えば、僕は小沢一郎自身はあまり好きではない。かつて「金竹小(こんちくしょう)トリオ」などと呼ばれ、政界を牛耳っていた時の印象がすこぶる悪い。その後の、新党を作っては壊しの連続、昨年の大同連立騒ぎと、己の主張がめちゃくちゃに見えた。ただ今回の、新聞・テレビの反小沢キャンペーン風の報道を見ると、いつのまにか僕もマスコミによって、反小沢に刷り込まれていたのではないかと危惧もしている。かつて我が家は、親と同居している関係もあり“読売”と“産経”の2紙を購読していた。(“朝日”も獲っていた時があったが、「珊瑚礁いたずら書き記事捏造事件」以来断っている)それが数年前の個人的経済危機のため、我が家の事業仕訳で“産経”を辞めた。僕自身は“産経”の記事が好きだったので、そっちを残したかったのだが、チラシが読みたいと言う理由で、“読売”が残った。久しく読んでいなかった“産経”を、昨年初秋ごろ、義父の通う病院の待合室で目にした。民主党が政権交代した後のことだが、その民主党の悪口がこれでもかとつづってある。批判とか言うものではなく、完全な悪口だ。これには驚いた。ブロがーのきっこさんが“三流軽薄新聞”と呼んでいるが、まさにその通り。これでは公正な報道とは言えない。いつからこんなになってしまったのだろう。“読売”に関しては、もともと記事はつまらないし、深い分析はいっさい出来ないようなレベルだったので問題にもならなかったが、大同連立事件以来、“なべつね”の存在が表に出すぎて、記事の書き方が嫌な感じにはなっている。まともには読まないようにしているが、この記事だけを読んで信用している人が居るのかと思うとぞっとする。テレビにしても、スポンサーの関係とか、許認可権の問題とかで、ニュースの取り扱いは空気に流されてしまう。抗議団体の存在も大きいだろう。ところがラジオは即時性のメディアであるためか、持つ力が小さいためか、割と本当のことが報じられる。テレビは制約に縛られ、許されることしか出せないが、ラジオのコメンテーターは自身の考えをはっきり言う。官僚支配打破をうたう民主党対オール官僚チームの代表である検察の戦いと言う側面があるらしい。それを複数の人が言っている。僕が尊敬する、いつも冷静な判断をする江川詔子さんが、自身のブログ{Egawa Syouko Jounal}で東京地検を批判している。 http://www.egawashoko.com/c006/000315.html 僕はこの考えが正しいと思う。本日、小沢一郎の任意取調べがこれから行われる。どうなるかはまったく予断を許さない。と、話しはずれまくりになってしまったので、菅家さんに戻す。昨日は、取調べをした検察官が法廷に出た。菅家さんはこの森川大司・元検事に対し、謝罪を求めた。が、元検事は謝罪を拒否するのである。この展開は少し驚いた。検事としては職務を遂行しただけで、あの時点の証拠能力としては起訴するに足る内容だと判断したのだと、本人は考えているのだろう。それはそれで認めるが、その結果菅家さんに起きた悲劇について、何も責任がないと言えるのか。もともとはウソの自白をした自分が悪いんだろと、菅家さんを誹謗中傷する人も居るが、僕はそうは思わない。自身は、気が小さいからというが、自分を上手く主張できない、より他を慮ってしまう優しい人なのだ。振り返れば、僕にもそんな思いに追い詰められた経験がある。相手が自分を追い詰めることが目的で、こちらの話しを全く聞く耳持たないとわかったとき、この状況を脱したいがために、不本意な結論に導かれてしまうものなのだ。早く脱して、早く忘れたい。脅しをかける相手が、自分の家族を持ち出して強迫をかけるとひとたまりもなくあきらめてしまう。手口は同じだ。せめて第三者がそこに居て、冷静な判断をしてくれれば、助かることもあるのだろうが、菅家さんに最初に接見した弁護士がひどかった。弁護士と検事と裁判官がこぞって敵になれば、認めるしか道はなくなる。仮に裁判員制度で行われたとしても、これでは素人には太刀打ちできない。菅家さんは、森川元検事に謝罪を求めた。数度頭を下げて、あたかも懇願するように。しかし、元検事はそれを拒んだ。審理後、菅家さんは言った。「一生許さない」と。僕は思う。本当は、菅家さんは許したかったんだと。自分を陥れた、すべての人を、許すための通過儀礼が欲しかったのだと。彼が謝罪すれば、彼を許すことが出来た。しかし、彼は謝罪を拒んだ。そして、菅家さんは許す機会を失った。森川元検事は、職務に忠実であったことを主張するよりも、まず人としての心を掘り起こして欲しかった。官僚のすべてがそうだとは言わないが、組織主体の考えにどうしても固執してしまう。それが正義だと考えているが、あくまでコップの中の正義だ。検察の面子は保っても、彼自身の心は救われないだろう。人を傷つけたら、謝る。謝られたらゆるす。菅家さんが残りの人生で、幸福を取り戻すには、この“ゆるす”という試練を超えなくてはならない。ぜひその機会を与えて欲しい。