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カテゴリ:ロック音楽
立教女学院 聖マーガレット礼拝堂 2005年3月25日はグッド・フライデー、キリスト がエルサレムのゴルゴタの丘で十字架にかけられて処刑 された日。 26日はホーリー・サタデー、キリストが墓に葬られた 日。 そして27日、きょうはイースター・サンデー、復活祭 。金曜日に処刑されたキリストがよみがえったことを祝 う最も重要な祭日。 こんなことがわかるようになったのは、南の島に友人が できてから。 ユーミンは、幼稚園がカトリック、中学校がプロテスタ ントで、グレゴリアンチャントなどの教会音楽に影響を 受けたそうです。 「ベルベット・イースター」が収録されたファースト・ アルバム『ひこうき雲』のデザインは、アルヒーフのレ コード・ジャケットを意識したものでした。 サウンドは、キャラメル・ママ(細野晴臣ベース、松任 谷正隆キーボード、林立夫ドラムス、鈴木茂ギター)の 参加で、ユーミンのヨーロッパの香りのする音楽に、ア メリカのウエストコースト風の味つけが加わって、バラ エティに富んだものになりましたが、基調は、祈りの歌 のように思います。 このアルバムが発売されたのは1973年11月20日 。ユーミンは当時、大学2年生でしたが、友人の死を歌 った「ひこうき雲」をはじめ、曇り空や夜明けの雨など をモチーフにした、このアルバムの作品は、60年代後 半から70年頃までの波乱に満ちた青春時代に捧げられ ているように感じられます。それが72年頃の人々の気 分でもあり、ユーミンの音楽は、その雰囲気をうまくと らえていたので、共感を呼んだのではないでしょうか。 <参考>1966年~1972年のユーミン 私には、ファースト・アルバム『ひこうき雲』の背景で 、1960年代にユーミンが体験したさまざまなことが ひびきあっているように聞こえます。そんなことは、歌 詞には、ひとことも出てこないのですが。ユーミンは、 それを「私小説というコンセブトに基づいている私小説 アルバム」「今まで思春期とか、幼少時代送ってきたの をすべてはき出していたアルバム」と説明していますが 、私は、ユーミンは、個人的な体験を、普遍性を獲得す るところまで、イメージを研ぎ澄ませて作品化したのだ と思います。 ユーミンは、1960年代にどんな体験をしたのでしょ うか。デビューから10年後の1983年に発行された 『ルージュの伝言』という、ユーミンのインタビューを 山川健一氏がまとめた本からいくつか書き抜いてみたい と思います。以下、敬称略。 1966年に立教女学院中学に入学したユーミンは、テ ンプターズやカーナビーツなどのグループ・サウンズの おっかけとして、新宿や銀座のジャズ喫茶に出没するよ うになります。やがて、それに飽きたりず、立川や横田 の米軍基地に出入りしはじめ、基地のPXでジミ・ヘン ドリックスやクリーム、ジェファーソン・エアプレイン 、アンアン・バタフライなどのレコードを買い漁り、ゴ ールデンカップス、モップス、ビーバーズなどにレコー ドを持ち込むようになります。特にプロコルハルムのレ コードは、すり切れるくらい聴きこみます。そのうち、 成毛茂、高橋信之(高橋幸宏の兄)らが結成したフィン ガーズというバンドの中国人のベーシスト、C・U・チ ェンに惹かれ、音楽的にも影響を受けていきます。「ユ ーミン」という呼び名は、C・Uがつけたそうです。 1968年から、ユーミンは、御茶ノ水の美術学校へ通 うようになり、その界隈の、明治大学や中央大学の激し い学生運動を目撃します。 ロックミュージカル『ヘアー』を上演しようとするグル ープと知り合い、ブティック「ベビードール」や飯倉の レストラン「キャンティ」を拠点に交流を始めます。六 本木の女王といわれた「キャンティ」のオーナー、梶子 にかわいがられ、サン・ローランの衣裳をプレゼントし てもらいます。立教女学院高校へ入学した1969年の 5月には、元ザ・タイガースのメンバー加橋かつみがユ ーミンの作品「愛は突然に」をレコード化します。この ころ、六本木のディスコ「スピード」に通い、そこに出 演していたバンド、フローラルの細野晴臣、松本隆、小 坂忠らと知りあいます。 ベトナム戦争への抗議、性の解放、資本主義への嫌悪、 宗教への疑問をテーマとした『ヘアー』は、東京公演を 1970年2月25日、3か月で11万人の観客を動員 して終了。しかし、翌日、主要なスタッフ4人が大麻取 締法違反で逮捕され、3月1日からの大阪公演は中止に 追いこまれてしまいます。ユーミンは、根岸のドルフィ ンの近くの外国人収容所にいるC・Uに面会に行ったり 、立教の男の子とパーティをやったり、湘南の海までド ライブしたりという日々をおくります。 「だから、いわゆるカウンターカルチャーは、もうたっ ぷり吸い込んだね。60年代終わりから72、3年とか まで。すごく暗い時代だったじゃない、本当は。ジェフ ァーソン・エアプレインの歌なんか、私にとっては象徴 的だった。ああ、これぞ今の私だとかって思ったもの。 あのトーンがそういうふうに思えた。もちろんほかの音 楽もいっぱい聞いたけど、なぜかグレース・スリックが 代表選手なの。」 1971年、高校3年生になったユーミンは、芸大の受 験勉強に本格的に取り組むため、遊びの誘いは断ります が、曲を作ってアルファレコードに持ちこむことは続け ていました。1972年4月、多摩美術大学に入学した ユーミンは、日本画を専攻しますが、アルファレコード の村井邦彦社長の決断で、シンガーソングライターとし てデビューすることになります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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