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カテゴリ:日本を旅する
下関と言えば、歴史上、多くの重要な舞台となってきた場所である。また、家内の故郷ということもあり、私もこの地は何度となく訪れている。 その下関に、近々、ロンドンのダブルデッカー(2階建バス)が走るというニュースを耳にした。下関に英国領事館が置かれて100年が経ち、下関市からの要請に応じ、バスが贈与されることになったそうである。当時の英国領事館は、重要文化財として、公開されている。 さて、下関と北九州の間に位置する関門海峡。ここは、平家最後の場所となる壇ノ浦の戦いの舞台であり、そして宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘した巌流島も浮かんでいる。そして、激動の幕末には、尊王攘夷の舞台となる。異国船打払いに始まり、四カ国連合艦隊による砲台占拠(馬関戦争)、講和。一転、開国倒幕へと舵をとるキッカケとなる。 連合艦隊との講和条約に、長州代表として立ち会ったのが高杉晋作だ。宍戸刑馬という名の家老に扮し、英国のクーパー提督と渡り合う。そして、この時、英国の通訳としてその場にいたのが、のちに下関に英国領事館を開設することを具申する、アーネスト・サトウである。 アーネスト・サトウは、幕末から明治維新にかけ、英国外交官として活躍するが、その当時見た激動の日本を「一外交官の見た明治維新」(岩波書店)という本の中に記していて、実に興味深い。本書で述べられているのは、1869年(明治2年)までであるが、アーネスト・サトウが日本に滞在するのは、幕末の1862年から1883年まで、そして1895年から1900年である。 アーネスト・サトウの進言で下関に英国領事館が建てられたのは、1906年、明治39年のことであるが、この時期、アーネスト・サトウは駐清公使として北京に滞在している。従って、彼自身は、英国領事館で執務していないことになる。しかし、旧英国領事館には、若き日のアーネスト・サトウの写真が飾られていた。 この1906年という時期に、下関に英国領事館が建設された理由は不明である。しかし、明治半ばから昭和のはじめにかけて、下関には、英国のほかにオーストリア、ハンガリー、ノルウエー、ドイツ、アメリカ、ポルトガル、オランダの領事館が開かれていたというので、驚きである。海外列強が、日本と貿易する上で、いかに下関を重要な位置として捉えられていたかが、うかがえる。 江戸時代、長崎と江戸を結ぶ航路、また日本海からの瀬戸内海に抜ける北前船の航路でも、下関は重要な中継港だった。英国もその貿易上、戦略上の重要性を理解していたのだろう。馬関戦争後の講和においては、下関と小倉の間に浮かぶ彦島を租借する要求を出したという。高杉晋作によりこの要求は拒否されるが、香港と同じように半植民地され、以後99年間英国領となっていたら、日本の歴史もどうなっていたか分からない。 ところで当時、関門海峡には、ファン・デル・カペルレン海峡という名もつけられている。これは、蘭医として長崎に派遣されたフォン・シーボルトが、派遣元の東インド総督の名前をとり命名したものである。シーボルト事件で国外追放されるシーボルトだが、開国の後、再来日する。そして、この時、連れてきた息子アレクサンダーが、その後、日本に残り、アーネスト・サトウと共に、英国外交官として活躍するのは、面白い巡り合わせである。 英国と下関との繋がりを考えると、なかなか奥が深いと勝手に思う私である。英国領事館の前を、関門海峡に沿うように道路が走る。ここをダブルデッカーが走るのも、もうすぐである。(下写真:左に旧英国領事館、道路奥に関門橋の影も見える) 最後に余談である。この旧英国領事館の裏側には、異人館という名のカフェがある。実は家内にとっても、昔アルバイトしたことがあるという思い出の場所である。店内は、アンティークに纏められていて、英国領事館の雰囲気と相俟っていて落ち着く。そしてホームページでは、「フランスで生まれたカフェ・オ・レが、日本の武士道を巧く取り入れ、アレンジされています。」と紹介されている。 そのカフェ・オ・レであるが、テーブルの前で、名物コーヒーマイスターが掛け声をし、姿勢を正して、高い位置からミルクとコーヒーをカップに注ぐ。一種のエンターテインメントとも言えようが、一滴もこぼさぬ集中力と、一つの型を表現方法として確立している、そのあたりが武士道を連想させるものなのか、謎である。その武士道たる由縁を確かめに、また行きたいとも思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.03.15 10:53:52
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