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カテゴリ:日本の城と城下町
8月末、1人鹿児島に帰省した折、中学生の頃に修学旅行で訪れた、熊本城と水前寺公園とに立ち寄ったことは既に記したところである。しかし、もう一箇所寄り道した場所がある。それは、復路、新幹線の新八代駅から熊本空港へと向かうバスの待ち時間の合間に、立ち寄った、八代城址である。(右写真:八代城址の堀と天守台石垣) 生まれてから学校を卒業するまで、鹿児島に住んでいた私にとっては、八代は身近な場所。県外に飛び出せば必ず通る八代の景色は、国道3号線、そして鹿児島本線と、車窓に幾度となく見た筈であるが、その街に下り、時間を過ごしたことはない。また、その地に、城址があることも知ってはいたが、そこに関心を持つことは無かったのである。 その八代を訪れてみようと思ったキカッケは、やはり茶の湯だろうか。加藤清正に始まる加藤家2代が治めた肥後国に、豊前・小倉から転封されてきた細川家。その時、八代の地に入ったのが、利休七哲にも数えられる細川忠興である。八代城に入り、隠居した忠興は、この地で生涯を閉じるのであるが、これまで大徳寺高桐院、勝竜寺城址と忠興ゆかりの地を巡ってきた私は、最期の地を見届けたいとの思いを募らせたのである。 そして、もう1つ、茶会を通して知ることとなる、八代焼(別名、高田焼(こうだやき))の故郷としての八代である。細川家の転封と共に、豊前小倉より連れて来た陶工が、その地に開いたのが、御用窯となる高田焼。それは、青灰色の地に象嵌(ぞうがん)の文様が特徴的であるが、小倉時代の御用窯、上野焼(あがのやき)とは一線を画するのが面白い。今回、高田焼窯元のある日奈久(ひなぐ)を訪ねる時間は無かったが、新八代駅の観光案内所でそれを目にしたのであった。 さて、前置きが長くなったが、この夏、初めて訪れた八代城址。鹿児島の地から近くにありながら遠かった、八代城址には、現在、何の建物も残っていない。あるのは石垣と堀だけである。しかし、その石垣は、よく形を留めており、往時、その上に建っていたであろう門や櫓、そして天守閣など、その姿を彷彿とさせてくれ、またそれ取り囲む周囲の堀は、なみなみと水を湛え、夏の陽に輝いていたのである。 現在の八代城址は、又の名を松江城とも呼び、加藤清正の子、2代忠広が築城したものであることを、この時、初めて知る。既に徳川幕府の時代、一国一城令の下、一国に一つの城郭しか築けない筈のところ、肥後国に熊本城と八代城と二つの城郭が置かれたのは、ひとえに薩摩への牽制の意味合いもあったようである。 その八代城址は、当時の本丸がそのまま残っており、周囲を高い石垣がしっかりと囲っている。従って、周囲の堀は、内堀ということになろう。そして、その本丸は、決して小さくなく立派である。中央には、明治期に造営された、八代宮という懐良親王(かねながしんのう:後醍醐天皇の皇子という)を祀る大きな社が鎮座しているため、本丸全体を見渡すのは難しいが、本丸を囲む石垣の上に立てば、あらゆる方向から、その八代宮を見渡せるわけである。 本丸を囲む石垣の上は、かつて櫓や塀が巡らされ、塀に設けられた鉄砲挟間や矢挟間からは、敵に対して武器を構える備えがいたのであろう。その周囲の石垣の幅は割と広く、散歩コース、市民の寛ぎの場となって、所々、堀を臨むようにベンチも置かれている。実際、ベンチに横になっている人もいたが、そこに全く柵の一つも無いのには、驚いた。端に寄ると、そこは内堀から立ち上がる石垣の上、10メートルほどはあるのではなかろうか、ちょっと危ない感じである。(下左:高麗門の石垣、下中:三階櫓石垣、下右:小天守石垣から月見二階櫓への石垣)
私は、その本丸を取り囲む石垣の上を3/4周ほど歩き、そして堀の周りも3/4周ほど歩き、トータルで城を一周したのだが、それも見事な遺構ゆえである。二つある枡形になった虎口(門)の石垣の遺構は堂々としていて、一旦、本丸石垣を下りると、門の外に歩いて出て、観察したものである。(下左:表枡形門(高麗門)、下右:裏枡形門(左)と天主閣石垣)
しかし、特筆すべきは、裏枡形に隣接して立つ、天守閣の跡である。かつてそこにあった八代城の天守閣は、大天守と小天守の連立天守を構成しており、その構造は、何と名古屋城の天守閣を真似たものであるらしいのだ。2層2階の小天守閣、そして4層5階の大天守閣からなる天守閣は、肥後国第二の城郭としては、堂々としたものである。 小天守閣から入り、連結された大天守閣に入るが、そこは天主台の石垣に囲まれた地階(穴蔵)に繋がる。それは確かに名古屋城の天守閣にアクセスするルートと同じだ。大天守閣の入り口を正面に上を見上げると、名古屋城の大天守閣が威圧するように聳えている。そんな光景が、ここ八代城においてもきっと見られたのではなかろうか。(下左:小天守跡より大天守の天守台と連結部、下中:大天守跡より小天守入口(若干崩壊)、下右:大天守跡より小天守と連結部石垣) 思えば、名古屋城の大小天守閣の石垣を築いたのは加藤清正。名古屋城の本丸に加藤清正の像を見た記憶もある。そして、現在の地に八代城が築かれた時には、既に清正はいないが、その子忠広が父清正の威光をそこに再現したのであろうか。そう思うのである。 そして、歩き始めてから約1時間、八代城址の石垣と堀が醸し出す美を目に焼き付けると、いよいよ帰路につくのであった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.10.03 00:38:02
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