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カテゴリ:日本の城と城下町
この夏、27年ぶりに彦根城と安土城址とを訪れたことは、既に記したところであるが(こちら)、そのことが、私の城への想いに火をつけたようである。鹿児島への帰省の際に訪れた熊本城、そして八代城址を訪れた翌日には、場所を東海に移し、駿府城址を12年ぶりに訪ねる。(右写真:駿府城巽櫓と東御門、中堀) それは、8月最後の日、出張で静岡を訪れた時のこと。約3年ぶり3度目の静岡出張、過去には駿府城を訪れようという気を起こすこともなかったのであるが、この日はそれを頭に入れて静岡に向かったのであった。 折りしも、台風の影響で、この日の朝、東京では激しい雨が降っていたが、静岡は幸いにも、全く無縁の天気であった。仕事を終えて静岡駅に戻ってきた時には既に17時になろうとしていたが、天気は良し。駅から徒歩圏内にある駿府城まで、約1時間の散歩をしてきたのである。 駿府城については、昨年、このブログでも記したことがある(こちら)。しかし、最後に駿府城を訪れたのは1997年。その記憶は非常にあやふやで、当時のチラシを見ながら、漸く記憶を甦らせた次第である。そんな訳で、今回の駿府城は、その取り戻した記憶の確認を行い、脳裏に焼き付けるために訪れたとも言えよう。 駅から歩き、最初に辿り着くのが、外堀と三ノ丸石垣の遺構。その遺構は、今では一部が残っているだけであるが、堀に沿って、大手御門へと歩く。と、そこで驚くべき光景を目にする。それは、先日、静岡で起きた強い地震で崩壊した石垣の痛々しい姿である(下左写真)。その近辺、三ノ丸に至る周囲の石垣にはロープが張られていて、注意を促していたが、さらには、中堀に面した巽櫓と二ノ丸御門の間の石垣にも崩壊(下右写真)があり驚いた。
地震の被害という点では、戦後の福井地震で越前丸岡城の天守閣が崩壊した例もある。しかし、徳川家康晩年の城、駿府城で石垣の崩壊を見ようとは、自然の力も侮れないものである。 さて、そんな光景に驚きつつも、城を取り囲む中堀の周囲をぐるりと歩くと、「ここは、歩いたことがある」と、12年前に歩いただろう景色が重なってくる。そして、中堀にかかる橋、西門橋を渡り広い公園内を散策すると、目の前に広がる景色から、12年前の景色を重ね合わせようとする。「ああ、こうなっていたのか?」と、復習するかのようである。 当時、再建されたばかりの、巽櫓、東御門の景色には、懐かしさを覚えたが、それを含め、城内の景色は当時と変わっていないようであった。公園となっている二ノ丸、本丸の跡地には、そこに、かつて城郭であったことを感じさせるものは殆どない。本丸跡に立つ、徳川家康の像とも、12年ぶりに再会するが、お変わりない。 そんな公園内にあって、わずかに面影を見せるのが、ほんの一部の内堀の遺構、そして、特筆すべき、内堀と中堀とを繋ぐ水路の遺構である。水路の遺構については、昨年、このブログに記すに当たって、すっかり忘れていたのだが、写真を掘り起こす中で思い出されたのであった。実は、今回、それをしっかりと確かめることが、駿府城を訪れるに当たっての最大の関心事だったのである。
内堀は池のようになっていて、何とも物足りさを感じるのは拭えないのだが、そこに中堀からの水路が注ぎ込んでいる(上左)。本来ならば、本丸を囲むように水を湛えているべき内堀であるが、そんな面影さえない。それでも、水路だけは二ノ丸をジグザグに横切り(上中)、最後、中堀へと繋がっていたのである(上右)。 今回、その水路の遺構を再確認できた点では、駿府城を訪れた甲斐があったというものである。が、同時に、駿府城天守閣再興、その道のりの困難さも痛感したのである。天守台はもとより、本丸の石垣や内堀も殆ど残っていない状況下、それは遙かなる夢なのかもしれない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.10.09 13:58:48
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