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2009.11.07
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カテゴリ:日本の城と城下町

初秋の日差しが眩しく、汗ばむほどの陽気でもあった10月4日、一休寺を後にした私達夫婦が訪れたのが、大和郡山城である。そこは、かつて豊臣秀吉の弟、秀長が治め、茶の湯を通して知る"赤膚焼"を開窯した地でもある(関連ブログ)。そういう茶の湯の繋がりもあり、赤膚焼の窯元と併せて、訪れてみようと思ったわけである。(右写真:大和郡山城・追手向櫓)

さて、郡山という地は、金魚の一大産地として有名であることを訪れる直前に知る。市内、至るところに、金魚の養殖池(?)があり、この日もほんの一部ではあるが、秋の日差しに眩しく輝いているのを見るのである。しかし、私にとっては、何といっても甲子園の高校野球。最近では、その名を目にすることも久しくなった感もあるが、奈良の郡山高校と言えば、甲子園の古豪で試合巧者。私が子供の時分には、ベスト8、ベスト4にも良く顔を出していたのが懐かしい。

そして、その郡山高校も、大和郡山城内にあることを知ったので、それもまた一つの楽しみとして、その地を訪れたのである。城址公園には、石垣や堀が残り、そして再建された櫓や塀、門などが立つが、近鉄電車に乗り、近鉄郡山駅にアプローチする際にも、車窓にその姿を目にする。

駅に到着した時、時計の針は13時を回ろうという所であったが、足早に歩を進めた先には、昼食や喫茶する場所もなく、暑さによる喉の渇きと空腹に、家内には辛い思いをさせたものである。そこで、大和郡山城での時間は、家内を木陰で休ませ、私のみが城址内を精力的に歩くこととなったのである。興味あるものを目の前にすると、多少の渇きも空腹も我慢できるのであるが、さほどの関心も無ければ苦痛でしかなく、家内には後で謝ることしきりであった。

ともあれ、家内を待たせた手前、大和郡山城址内を小走りに駆けたといった方が、正確のところかもしれない。そのため、大和郡山城に滞在したのは、30分ほど。しかし、この城のことを知れば知るほど、色々な繋がりが見えてきて、また面白い。前置きが長くなってしまったが、その発見した繋がりについて触れてみたいと思う。

大和郡山城が築城されたのは、まさに信長全盛のころ。それまで大和の地を手中に収めていた、松永久秀を信貴山城に滅した時(こちら)、信長軍の先鋒として働いたのが、筒井順慶。その功あって、大和を治めることとなった筒井順慶がこの大和郡山城を築き、郡山が大和国の中心となるのである。

その筒井順慶こそが、「元の木阿弥(もくあみ)」という言葉の起源。そのことを、最近、雑誌を読んでいて知るのであるが、それは、順慶がまだ幼少のころ、筒井家の当主が早逝したため、その事実を隠すために、当主に似た盲目の"同朋衆"、木阿弥を替え玉としたという話。しかし、順慶の成長著しく、わずか3年で木阿弥は替え玉としての役割を終え、元の木阿弥に戻ったということである。そういう話をこのタイミングで知るのも、また巡り合せであろうか。

その順慶が城郭を完成させるのが1583年。しかし、何と翌1584年、35歳でこの世を去ると、1585年、羽柴秀長が大和郡山に入城するが、この時、大和・紀伊・和泉・伊賀の100万石余の太守という立場だったというので驚く。そして、さらに城郭が整備され、また赤膚焼もこの時、生まれたのであろう。しかし、入城してから6年後、秀長も50歳でこの世を去ることになる。

秀吉の弟、秀長の死は、色々な意味で大きな痛手であったと言われているが、それは宣教師ルイス・フロイスが著した『日本史』の中でも、その人となりが述べられていることからも察せられる。もし、その死が無ければ、その後の朝鮮出兵、キリシタン弾圧、そして関白秀次粛清と言った、秀吉の暴挙も起こらなかったかもしれず、違った歴史が展開されていたかもしれないのである。

    大和郡山城の石垣

現在、目にする大和郡山城の石垣や堀、それは秀長が整備した時の遺構であろうか。外堀、そして内堀いは水を湛え(上写真:上右)、そして本丸・天守郭と本丸・二之郭とが対峙するかのように深く掘り込まれた内堀はまた壮観である(同:上右)。本丸・天守郭にある天守台(同:下)、その二段構えの石垣は、往時、大小天守閣があった証だろうか、あるいは天守閣に附櫓があった証だろうか。それは想像するしかない。

天守閣の石垣の一角には、供養塔があるのが目に入り、お供え物もされていた。そこで見たのは、石垣の一部として、逆さに嵌め込まれたお地蔵さん『逆さ地蔵』。そこに、築城当時、何ふり構わず、石が集められてきたことを物語っている。そして、上った天守台には、雑草の中をバッタが跳ねる。そこに、「兵どもが夢のあと」的な、感慨さえ覚えたものである。

さて、本丸・天守郭の中央に鎮座するのが、柳沢神社。そして、その祭神は、この地に何の所縁の無い柳沢吉保というのも不思議な感じでもある(下左)。しかし、それも国替え大名が、その祖を祭るという点では、珍しいことでもないだろう。元禄時代、徳川5代将軍綱吉に寵愛され、小姓の身から、大名にまで出世する、その柳沢吉保の生涯は、NHK大河ドラマ『元禄太平記(1975)』に石坂浩二が演じたことでも印象的である(関連ブログ)。

その柳沢吉保の子、吉里が、甲府から大和郡山に移封されてきたのが、1724年。以来、この地は、柳沢家の城下町として6代147年、そして明治維新を迎えるということである。大和郡山の町を歩くと、まだ当時の街割りの面影というか、細い道が縦横に入り組んでいて、それらが失われずに残されているのに、何か懐かしささえ覚えるのであった。

   大和郡山城の周囲の景色

大和郡山城をスピーディに堪能した私は、最後に、郡山高校の正門に立つと、甲子園で見た懐かしい校章、それを素早くカメラに収めた(上右)。そして、その影を外堀に落とす白鷺に見送られるように(上中)、待たせていた家内と共に、大和郡山城を後にしたのであった。






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Last updated  2009.11.17 11:59:37
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