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2009.11.26
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カテゴリ:日本の城と城下町

姫路城西の丸、そこが豊臣秀頼の正室、千姫にゆかりがあろうとは、訪れるまで知らなかった私である。大坂夏の陣で豊臣家が滅びた後、桑名藩主、本多忠政の長男、忠刻(ただとき)に嫁いだという千姫。そして当時、姫路を治めていた池田家に変わって、本多忠政が姫路城に入ると、忠刻と共に千姫も姫路へと移る。

その千姫が、姫路城において居を構えたのが、西の丸。今では、その御殿の遺構は無いが、西の丸をぐるりと取り囲む渡櫓には、天守閣を間近に臨むところに千姫の休息所、化粧櫓があり、さらには、千姫に仕える女性たちが住んだ部屋、長局(ながつぼね)が並んでいる。姫路の地において、千姫はどのような想いで日々を送ったのか、ふと思いを馳せてみた。(右:化粧櫓からの臨む姫路城天守閣群)

西の丸の渡櫓は、300メートルにも及ぶ長い廊下によって結ばれており、そのことから百間廊下とも呼ばれているようである。その遺構は、日本でも唯一のものであり、その光景は圧巻である。しかし、その廊下は、果てしなく似たような光景が続くので、多少飽きもする。実際、過去2度訪れた時にも、この百間廊下を歩いているのだが、千姫や化粧櫓の印象が残っていないことは、それを裏付けているようでもある。

しかし、この日は、百間廊下に沿って並ぶ長局から臨む、姫路城の景色が、見る角度によって変わっていく様を楽しみ、化粧櫓まで歩いたのである(下:長局からの天守閣群のパノラマ)。そして、化粧櫓からの臨む天守閣はまだ遠い。しかも、その先に見える「は」の門(下、右下写真中、中央)は、天守閣に至る迷路のほんの始まりに過ぎないことは、最近のブログにも述べたところである。

   姫路城西の丸長局からの天守閣群

さて、千姫の生涯について調べてみるのは、初めてのこと。殊に、大坂夏の陣で助け出された後に運命については、これまで知る由もなかった。しかし、調べれば調べるほど、思わぬ発見があり、驚きもある。それを記しておきたい。

千姫は、2代将軍秀忠の娘。そして、その母は、浅井長政とお市の方の間に生まれた3女の江(ごう)。言うまでもないが、長政の長女、茶々が、秀吉の側室、淀殿となり、その息子、秀頼の正室に、江の娘、千姫が嫁ぐのも、歴史が複雑に絡み合うところである。そして、大坂夏の陣の戦火の中、家康の命により、千姫は助け出される。と、ここまではよい。

その後、時が経て、前述のとおり、本多忠刻の正室として姫路城に入るのであるが、姫路での生活は、わずか10年。当初は幸せだったその生活も、息子の死、そして夫、忠刻までもが31歳で若さで世を去ると、不幸は重なり、同じ年に、忠刻の母、そして母、江も逝く。時に千姫は30歳、落飾(出家)すると、娘の勝姫と二人、姫路を去り、徳川本家の江戸へと帰るのである。

その後、娘の勝姫は、因幡・伯耆(今の鳥取)の池田光政に嫁ぐが、その人こそが、千姫が本多忠政父子と共に姫路に入るまで、姫路城を治めていた池田宗家の3代藩主。それもまた、不思議な縁である。そして、のちに光政は、備前・岡山藩主となり、岡山は池田宗家の城下町として、幕末に至る。日本三名園の一つ、岡山後楽園を築園した2代藩主綱政は、千姫の孫にあたるとのことである(こちら)。

そして、千姫の逸話でもう一つ興味深かったのが、私が毎月のようにお世話になっている北鎌倉の東慶寺に関係するお話である。それは、豊臣家が滅びたとされる大坂夏の陣の後で、千姫は東慶寺の伽藍を再建しているということである。千姫は、秀頼と側室との間に生まれた娘、奈阿姫(なあひめ)を、自らの養女とすることで、処刑される危機から救うと、東慶寺に入れ出家させる。

その奈阿姫が、東慶寺の二十世住持天秀であり、その死によって、豊臣家の血筋は、北鎌倉の地で絶えることになる。東慶寺は、千姫の影響もあってか、家康のお墨付きを得ると、以後、縁切り寺として、治外法権を持つ寺として、幕末へと至る。そして、巡り巡って今、その由緒ある寺で、私達夫婦は、お茶を楽しませてもらっているのである。

姫路城で千姫ゆかりの場所を訪ね、色々と調べているうちに、最後は、東慶寺に到達。知れば知るほど、色々と繋がり、面白い発見をさせて頂いた。姫路城に感謝である。(つづく)






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Last updated  2009.12.04 21:10:04
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