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2009.11.24
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カテゴリ:日本の城と城下町

姫路城の堅固さ、そして迷路のような天守閣へのアプローチ。それを造り上げたのは、関ヶ原の後に、この地に入ってきた、池田輝政である。しかし、その武将の名は、一般には知名度はそう高くない。実際のところ、私自身も、姫路城を築城したこと以外には何も知らなかったのである。

そこで、少しレビューしてみたのだが、今さらながら、初めて知ることが多い。もとはというと清洲の生まれ、つまり織田信長の出世城、清洲城下だ。その後、信長、秀吉に仕えた輝政は、秀吉の没後、武断派の一人として石田三成と敵対、関ヶ原で徳川家康につき勝利する。と、ここまでは、加藤清正や福島正則、さらには細川忠興とも共通するところである。 

その謂わば、秀吉恩顧の武将でもある池田輝政が、関ヶ原の後、三河・吉田城15万石から、播磨52万石に大幅加増されて姫路城に入るわけであるが、その姫路城は、かつて黒田官兵衛が入り、秀吉の中国攻めの拠点ともなった要衝。しかし、この時、既に時代の流れは家康のもの。秀頼と淀殿の居城、大坂城もほど近いその地に、秀吉恩顧の西国大名を牽制する役割として、池田輝政が姫路に入るのは、歴史の面白くも皮肉なところである。

その時代背景が、池田輝政に、極めて防御性の高く、堅固な姫路城を築かせたというわけである。その防御性については、過去2回のブログの中でも紹介しているので、あらためて述べるまでもないのだが、つい補足したくなる。まずは、本丸から見上げる天守閣(下左:夕陽を浴びる大天守と西小天守)。ここに到達した敵が、天守閣に攻め込むには、いくつかの小さい門を経て、ぐるりと反対側、天守北側に回り、そこからさらに水一門から水五門まで、通過せねばならない。

  姫路城3

また、現在、姫路城の入口ともなっていて、三の丸から二の丸へと至る門でもある、"菱の門"。その門をくぐると眼前に聳え立つ姫路城が、その影を水面に映す(上右)。通常、堀と言えば、郭を取り囲むように廻らされているものだが、ここにある堀はほぼ真四角をしていて、違和感がある。しかし、それも防御の一つの形で、門を入ってきた敵の進路を狭めるためという。門を入って堀の左側、先に続く"い"の門へと直進すれば、西の丸から弓矢や鉄砲の雨に晒される。

また、堀の右側を直進すると、門のありそうのないところに、埋門(うずみもん)と呼ばれる、石垣をえぐるように作られた門があるが(上中)、そこは頭を下げて一人やっと通れるほどの小さな門である。押し寄せる敵も、瞬く間に渋滞してしまい、城からの攻撃に晒されることになる。しかし、そこまで考え抜かれた城も、実際にその堅固さを発揮する戦(いくさ)を経験することはなかった。それは江戸期に作られた多くの城に共通するところである。 

さて、秀吉恩顧でありながらも、池田輝政が、家康側の謂わば最前線に立ち、西国大名が大坂へ駆けつけるのを阻止する役割を担うのは、家康の娘、督姫を妻にしていたことが背景にあるようである。そして、優雅さと屈指の堅固さを備えた姫路城を居城とした輝政は、"西国将軍"などとも称されたようであるが、自らが治める播磨に加え、一族で備前、淡路、さらに鳥取と、合わせて100万石近くの所領があったというので驚く。

しかし、輝政が築いた姫路城を池田家が治めるのも、わずか3代。それは、大坂夏の陣で、豊臣家が滅んだ、わずか2年後のことである。3代池田光政は因幡・伯耆32万石として転封となり、かわりに徳川家康の重臣、本多忠勝の長男、忠政が桑名より入る。それは、光政が幼少ゆえとのことだが、西国の抑えという役目を終えた、秀吉恩顧の池田家を、強大な城郭の下、姫路に置く必要はない、という思惑でもあったのではなかろうか。そうも思いたくなる。 

余談だが、姫路より北西に約50キロのところ、今の兵庫県佐用町に、利神(りかん)城という山城の跡がある。麓より、山頂に残る石垣を臨めるというその山城も、実は今回の旅の目的地の一つだったのだが(雨天のため実現せず)、輝政が姫路城を大規模要塞とするのと時を同じくして、輝政の甥・由之がその城郭を整備する。しかし、その城があまりにも強固なものであったため、謀反の猜疑を掛けられることを恐れた輝政が、破却させたという。

それは、まさに今年の大河ドラマ『天地人』においても、家康が上杉家に対して、事あるたびに、「謀反の疑いあり」と、何かと文句をつけていたことを思い出させる。現在ある姫路城を築城した池田輝政にしても、豊臣恩顧ゆえに、徳川家康を恐れていた、そういう微妙な立場を感じさせられる逸話である。(つづく)






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Last updated  2009.12.04 11:09:12
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