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カテゴリ:日本の城と城下町
姫路城を訪れた翌日、長年切望していながら、なかなか訪れる機会のなかった城、播州・赤穂城を訪れる。赤穂(あこう)と言えば、今さら私が申すまでもなく、赤穂浪士、忠臣蔵ゆかりの地。降雨が予報されていたその日、今にも雨が降りそうな空の下、姫路駅で車を借りると、一路、赤穂へと走ったのである。 赤穂城を最初に目にした時の印象、それは、まず石垣の高さが、「随分低いなあ!」という驚きである。さらには、石垣や堀の遺構が、視界の奥の方へと続いていて、意外と残っているのに驚かされる(下左:三の丸石垣と東隅櫓台)。何と言っても、私の知る赤穂城のイメージは、その大手門と、白壁で連なる隅櫓のみ(下右)。大手門から堀に架かるその橋を、討入りの日に行われる義士祭で、四十七士が渡り城外へ繰り出す、そういう写真の記憶である。
さて、訪れてみて初めて、赤穂城の縄張り(郭の配置)を知るのであるが、期待していた以上に、城址が広大であるのに驚いた。それまで写真で良く見ていた大手門は、三の丸の入口に過ぎず、門を入って暫く歩くと、遙か前方に、整備された石垣や再建されたらしい白壁の塀、城門などが見える。それが本丸門であることに気付くのには、時間はかからなかった(下左:本丸門)のだが、二の丸、本丸はまさに整備が進行中であり、往時の赤穂城の姿を取り戻しつつあるように思えた。
その本丸には、天守台があり、そこからは広い本丸を見渡し、そして本丸門を臨む(上右)。かつて本丸御殿があった本丸には、それを再現するように、平面で間取りが再現されているので、往時の姿を想像してみる。本丸の周囲は堀に囲まれ、二の丸がぐるりと取り囲む、所謂、輪郭式縄張となっていて、なかなか珍しい。そして、二の丸の堀の北側に三の丸が配置されているのである。 調べると、赤穂城が築かれたのは、1645年浅野氏が入封してからのことで、完成したのは1661年という。しかし、播州赤穂・浅野家3代、浅野内匠頭長矩(たくみのかみながのり)の時、あの江戸城、松の廊下刃傷事件が起き、お家断絶となるのは、周知のところである。そして、赤穂藩筆頭家老、大石内蔵助率いる、四十七士による主君の敵討ち、吉良邸討入りへと至るわけである。
赤穂城の三の丸には、大石神社があるが、その参道の両側には、四十七士の像が立ち並び、壮観である(上左)。それに目をやりながら、神社の鳥居まで来ると、最後に大石内蔵助の像が立つ(上右)。そして、神社の境内には、宝物館があり、そこに四十七士ゆかりのものが展示されているが、やはり中でも目を引いたのは討入りの時に使われた采配である(下左)。 私にとっての大石内蔵助のイメージは、NHK大河ドラマ『元禄太平記(1975)』に内蔵助を演じた江守徹である。そこに展示されている采配に、当時テレビの画面に見た、討入りのシーンを重ねる。さらには、討入りを前に内蔵助が訪ねた、松坂慶子演じる内匠頭未亡人、阿久里(あぐり)。畳に落ちた四十七士の血判状がパーッと畳に広がるのを目にした阿久里が、雪の降りしきる中、立ち去る内蔵助を見送るシーンまでもが甦る。 同じ三の丸には、大石内蔵助邸の址があり、当時のままの長屋門や庭園がある。長屋門には、内蔵助の討入り(上)や、内蔵助と主税(ちから)父子の対面のシーン(上、中右)が再現されており、内蔵助の夫人、大石りくと次男の姿もある。そして、ますますドラマのシーンは重なるのである。ドラマではりくを岡田茉莉子が演じ、主税を演じたのは、驚くなかれ、若き日の中村勘三郎である。 そこに佇む庭園は、内蔵助夫婦も歩いたのだろうか。それを想うと、その片隅に立つ、りくの旅姿の石像が、もの哀しく見えた。そして、そんな思いに浸りながら、私達夫婦も赤穂城を後にする。
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Last updated
2009.12.08 11:44:04
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