|
カテゴリ:日本の城と城下町
11月1日、赤穂城を発った後で訪れたのが、播磨の小京都・龍野(たつの)。とは言っても、その町が、小京都と呼ばれていることを知るのは、訪れる数日前のこと。しかも、その地を訪れることさえ、考えていなかったのだが、臨機応変、訪れることになる。 実は、その日、赤穂城を訪れた後、利神(りかん)城址(関連ブログ)を経て、有馬温泉まで車を走らせようと考えていた私である。しかし、天気予報は雨。それは、山城である利神城を歩くことを、困難なものとする。そして、赤穂城を発って間もなく、土砂降りとなると、あっさり諦め、目的地を龍野とする。そこは、地理的にもちょうど通過点にあったため、一服休憩するにも、好都合な場所であった。 龍野での目的地は、ただ一つ、茶室「聚遠亭(しゅうえんてい)」。ガイドブックの案内に、『毎週土日曜に茶席が一席300円で開催』という文章があるのに目が留まったのが、キッカケである。しかも、千宗室鵬雲斎大宗匠が命名した茶室もあるようであり、一服入れるには、なかなかいい場所のように思われたのである。 龍野の城下町は、昔ながらの細い坂道が縦横に走っており、カーナビにもその場所が登録されていなかったので、その目的地に辿り着くのには、苦労した。雨の中、何度も路肩に車を止めては位置を確認し、方向転換もしたものだが、なんとか辿り着く。突然、目の前に現れた、龍野城の隅櫓(冒頭写真)、それを迂回するように車を坂道に走らせると、城下町を見下ろす高台にその茶室を認めるのである。 その高台からは、途中遭遇した、隅櫓を眼下に見ることが出来た(下右)。そして、目的の茶室は、高台の隅、池に浮かぶように静かに佇んでいた(下左、中)。池を挟んで茶室を正面にしたところにある立札には茶室の由来が記されていた。「この茶室は安政年間、龍野藩主、脇坂安宅公が京都所司代の職にあって御所が炎上した際、その復興に功績があったので孝明天皇から茶室を賜わり、心地池上に浮堂として移築したものと.....」とある。
それは、まさに幕末、大老、井伊直弼の"安政の大獄"と同時代。世の中の情勢が急転回していく、そんな時代の話である。調べると、脇坂安宅その人は、桜田門外の変の当時、老中の地位にあり、その後、一旦隠居する。しかし、再び老中となると、島津久光の圧力に屈し、徳川慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を大老にする確約をさせられる役回りを演じることとなる。 また、孝明天皇と言えば、皇女和宮の異母兄。つい、昨年のNHK大河ドラマ『篤姫』でその人を演じた、雅楽奏者、東儀秀樹さんの顔が思い浮かんだりもする。が、ともかく、地方の小藩の藩主が、その時置かれた立場がゆえに、歴史の表舞台、重要な局面に顔を出すことになるのも面白い。 しかし、何よりも、赤穂城址を訪れた後に龍野を訪れることに奇遇さを感じさせられたのは、またしても忠臣蔵である。それは、大石神社に見て知るのだが、赤穂・浅野家が断絶となった直後、赤穂城の受取りの使者となるのが、龍野藩2代藩主、脇坂淡路守(安照)だったという事実である。かつて備中松山城の受取りの使者となった大石内蔵助は、赤穂城を龍野の脇坂氏へ受け渡すのである(関連ブログ)。 その脇坂氏の城下町龍野も、土砂降りゆえに歩くことはなかったのだが、車で右往左往したおかげで、その街が持つ幾つかの顔も知ることとなる。その一つは、街中にその文字を数多く認めた、『揖保乃糸』。その名を全国に知られた、そうめんが龍野の名産品であることを、現地を訪れて、初めて知る。龍野の町を流れる川、その名も揖保川である。 さらには、うすくち醤油発祥の地も龍野。町には、醤油蔵が並び、それが城下町風情とまた良く合う。そして、そんな龍野の風情の中で育ったのであろう作詞者が三木露風。その代表作の童謡『赤とんぼ』は、三木露風が故郷龍野への郷愁から作られたそうである(下:赤とんぼ歌碑)。それら、龍野の様々な顔を知れば知るほど、晴れた日に、ゆっくりと歩いてみたい町に思えてくる。
しかし、そんな小京都・龍野の風情も、その後の抹茶一服の時間から感じさせられようとは、とても思いも及ばない。その思い出深い時間のことを、引き続き綴ってみることとする。(つづく) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.12.11 21:39:22
コメント(0) | コメントを書く
[日本の城と城下町] カテゴリの最新記事
|