|
テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(山口編)
意外な場所に意外な人の墓所があったものです。
瀬戸内海では淡路島・小豆島に次いで三番目の面積を有する周防大島、その東の外れの方に内入という小さな集落があり、ここは村上武吉が晩年に居館を置いていた場所です。 土塁跡? 村上武吉の館跡は元正寺の境内となり、山門もない小さな本堂の脇に墓所がありました。 村上武吉の菩提寺でもある元正寺の本堂 古い土塀で囲まれた村上武吉の墓所 能島村上氏・因島村上氏・来島村上氏の村上水軍全軍の総帥であり、平たく言えば海賊の棟梁ではありますが、村上武吉は文武両道に秀でた教養人でもあり、ルイス=フロイスをして「日本最大の海賊」と称されていたそうです。 三大奇襲戦の1つに数えられる厳島の戦いでは、毛利元就の援軍として厳島の海上封鎖を行い、毛利元就は大逆転勝利を収めました。 以後、村上水軍は毛利軍と共にあり、毛利氏VS織田信長の木津川の戦いでは九鬼水軍との海を繰り広げ、文禄・慶長の役では毛利軍と共に朝鮮へと出兵していきました。 関ヶ原の戦いにおいても毛利氏と同じ西軍につき、村上水軍も瀬戸内海沿岸の攻撃など、水軍としての働きを見せています。 関ヶ原の戦い後に毛利氏が防長二国に減封となると、村上水軍も活躍の場を失い、徳川幕府の下では朝鮮通信使の海上警護などを行っていたそうです。 瀬戸内海の制海権を掌握し、最後まで瀬戸内海を舞台としていた村上氏ですが、やはりその真骨頂は潮流の変化が激しい瀬戸内海で培われた操船技術でしょうか。 水軍に限らず武将が書物を著すことは滅多にないのですが、村上武吉は兵法書を多く書いており、その1つである「村上舟戦要法」は、日露戦争の日本海海戦においても参考にされたようです。 村上武吉が晩年に選んだ周防大島ですが、かつての本拠地である能島に似ていたからだとも言われています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011/09/13 12:45:15 PM
コメント(0) | コメントを書く
[城跡と史跡(山口編)] カテゴリの最新記事
|