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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(山口編)
赤間関から旧山陽道を上って長府宿に差し掛かる頃、街道沿いに功山寺の総門が見えてきました。
功山寺は鎌倉時代末期の1327年に創建され、開基は当時の長門・周防の守護であった北条時直とされています。 室町時代に入ると足利尊氏も崇敬して、寺領を寄進していました。 1773年に長府藩主毛利匡芳によって再建された山門 本堂(仏殿)は1320年の創建で、国宝に指定されています。 室町時代の周防の守護大名であり、「西の京」とも呼ばれた大内文化を発展させた大内義隆が陶晴賢の謀反によって自刃すると、陶晴賢の後押しで大内氏当主となったのが大内義長でした。 厳島の戦いで陶晴賢が毛利元就によって討たれると、毛利元就は大内義長の山口へと侵攻してきました。 追われた大内義長が立て篭り、自刃したのが功山寺です。 功山寺の墓地の片隅に、その大内義長の墓所がありました。 栄華を誇った大内氏もここで滅亡しています。 毛利氏の時代になった1602年に長府藩主初代毛利秀元の菩提寺となり、毛利秀元の法号に因んで功山寺と改名され、以後は長府毛利家の菩提寺となっています。 幕末になると、功山寺は再び歴史の舞台に登場してきました。 1863年8月18日、いわゆる「八月十八日の政変」で公武合体派のクーデターにより長州藩は朝敵とされ、尊皇攘夷派の公卿7名は長州藩士と共に京都から長州に落ち延びたのですが、この時三条実美以下七名の公卿が滞在していたのが功山寺の書院です。 朝廷から幕府には長州征討の勅命が下り、第一次長州征伐へと発展していきました。 第一次長州征伐で長州藩は保守派が主導を握っていましたが、その長州藩に対してクーデターを起こし、長州藩を倒幕へと動かしていったのが高杉晋作です。 高杉晋作が挙兵した場所が功山寺であり、境内には高杉晋作の「回天義挙」像が建っていました。 この時挙兵に参加したのは84名だけで、その中には松下村塾の後輩である伊藤俊輔(博文)がいました。 その後は高杉晋作の挙兵に山縣狂介(有朋)率いる奇兵隊も呼応し、長州藩は倒幕で統一されました。 第二次長州征討では近代兵式によって幕府軍を打ち破り、時代は倒幕へと進んで行きました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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