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テーマ:城跡めぐり(1251)
カテゴリ:城跡と史跡(茨城編)
霞ヶ浦から約1km、土浦市の中心近くに土浦城があります。
城跡は亀城公園の公園広場となっており、一見すると殺風景な印象がありますが、ここに土浦市の史跡に対する真摯さを見ることができ、大いに評価したいところです。 ![]() 公園入口にある霞門 ここが城跡だと知らなかったら、いきなり公園の入口に薬医門があるので違和感を感じるかも知れません。 霞門は本丸の搦め手口にあり、門の前には枡形も跡を見ることができました。 土浦城は霞ヶ浦の水利を使った水城のような縄張りで、幾重にも水堀が廻らされていたようです。 ![]() ![]() 霞門のある本丸南側の内堀跡 ![]() 本丸跡 周囲には土塁の跡が残っていました。 1884(明治17)年の火災によって、本丸の建物は大半が焼失し、本丸の建造物では霞門・西櫓・太鼓門だけが火災を免れたそうです。 ![]() 西櫓 この西櫓も1949(昭和24)年のキティ台風によって損壊したのですが、復元を前提に解体された後に市民の寄付によって復元されたものです。 ![]() 本丸と二ノ丸の間にある太鼓門(現存) 市街地の城跡でありながら、残るべきものがきっちりと残っている印象ですが、余計なものが建っていないことが何よりです。 (城跡というだけで、石垣を積んでみたり天守を上げてみたりするのが常かも知れません) 本丸には西櫓の他に東櫓が建っていますが、こちらも史実に基づいて建てられたものです。 ![]() 東櫓 現在は土浦市立博物館の別館となっています。 ところで土浦市立博物館の本館は土浦城二ノ丸の北東側にあって、本館と別館の入場券は共通となっています。 気になるのは入館料ですが、共通で105円と破格の入館料ながら、展示はかなり充実していました。 特に本館では、土浦城を含めた土浦の歴史が詳細に紹介されているだけでなく、室町時代の本物の日本刀や各種の書状が展示してあるくらいです。 (それにしても歴史博物館の入場料を5円単位で払ったのは初めてで、公共施設で消費税を課税されることもよくわかりませんでした) 東櫓の二階に登ると、当時の眺めが手書きで解説してありました。 ![]() 「○戦国時代まで、桜川は堀や道路(駅前通り)のところを流れていました」 「○タクシー会社のあたりには、江戸時代、藩の倉庫が建っていました。その向うには武家屋敷がありました」 ![]() 「○江戸時代には、ここから霞ヶ浦を望むことができました」 「○裁判所(水戸地方裁判所土浦支部)の敷地は、江戸時代には外丸御殿といい、藩主の家族のすまいでした」 「○関東銀行のところには、以前、土浦市役所が置かれていました」 ちなみに解説の漢字にはふりがなが振ってあり、小学生向けだと思われますが、折りしも夏休み最後の週末にも拘らず、他に訪れる人はいませんでした。 夏休みの自由研究で追い込みをするならば、「土浦城に見る、史跡の保存と復元に関する考察」なんていかがでしょうか。 その東櫓から続く本丸の土塁上には、土塀が復元されていました。 ![]() 江戸時代の絵図によって土塀の存在が確認されているようですが、さらに発掘調査と文献調査によって、土塀の高さは東櫓側が七尺半でその他は七尺とし、史実に基づいて鉄砲狭間と石落しが復元されています。 おそらく本丸の周囲は全て土塀で囲まれていたと思われるのですが、復元されているのは史実にあるこの本丸の片隅だけでした。 ところで、土浦城にはもう1つ現存する門がありました。 ![]() 二ノ丸虎口にある前川口門 元々はこの位置にあったものではなく、昭和56年に移築されたものだと記されていました。 おまけですが、土浦市立博物館脇の外堀沿いには、数々の道標が建っていました。 いずれも道路工事の際に移築・保存されてきたものです。 ![]() 水戸街道と筑波街道の分岐点にあって道標で、享保17(1732)年の銘があります。 世に「名城」と呼ばれる城郭がありますが、土浦城は名城ではないにしても、「名城跡」に入るかも知れません。 「名城は築城主によって造られ、名城跡は後世の人によって造られる」と言えば言いすぎでしょうか。 一説には土浦城は平将門によって築城されたと伝わっているそうですが、さすがにそれはないと思います。 戦国時代には小田城の小田氏の支配下にあったようで、こちらはもっともだと思います。 小田氏治が佐竹氏によって小田城を追われた時、逃げ込んだ先がこの土浦城だったことを思うと、土浦城は小田城の支城のような存在だったかも知れません。 1590年に豊臣秀吉によって小田原北条が滅ぼされると、徳川家康が関東に移封となり、土浦城は結城城の結城秀康の支配下となりました。 ところでこの結城秀康ですが、その名前にもあるように、徳川家康の次男でありながら、豊臣秀吉の養子でもあり、天下を継ぐに資格十分な人物でした。 (徳川家康の長男である松平信康は織田信長の命により切腹しており、結城秀康が実質的な長男であり、秀忠の兄にあたります。さらに豊臣秀吉の養子となった時、秀頼はまだ生まれていませんでした) 別に器量が劣っていたわけではなく、武勇と人望では徳川秀忠を上回っていると思うのですが、なぜ徳川将軍の第2代とならなかったか、いまだに不思議なところです。 江戸時代に入ると、城主が松平氏・西尾氏・朽木氏と変わり、代々土屋氏が藩主となってから明治維新を迎えています。 ところでこの土屋氏ですが、「もしかして土屋昌次と関係があるのかな」と思って調べてみると、その土屋昌次の末裔でした。 その土屋昌次ですが、時代はずっと遡って1575年、織田信長・徳川家康の連合軍と武田勝頼軍が設楽ヶ原で戦った「長篠の戦い」で、武田勝頼軍で参戦していたのが土屋昌次です。 長篠の戦いでは、織田・徳川連合軍の鉄砲射撃の前に、最強と言われた武田軍がなすすべなく倒れたといった印象ですが、実は武田軍の中にも馬防柵まで取り付いた一隊があり、それを率いていたのが土屋昌次でした。 ![]() 設楽原の土屋昌次墓所(2008年1月) 土屋昌次が長篠で討死して武田氏が滅亡した後、土屋氏は途絶えることなく続いて、徳川家康に仕えた後に大名家となり、土浦城主として明治維新を迎えています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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Belgische_Pralinesさん
光栄なことですが、それはそれは恐れ多いので、とてもではありません。 明後日の記事を書かれているのはすごいこですが、果たしてどの記事なのでしょうか。 気になるところで、楽しみにしております (2012/09/03 11:25:45 PM) |