「特定秘密保護法」は何を保護するのか
我が日本国は「自由」を基本にしている国のはずだ。 では「自由」ってなんだろう? 「自由」とはそれを享受する「権利」が守られてこそ、だ。 つまりは、裏を返せば「権利を守る」ということ。 「権利」といってもあまりに幅が広くあいまいとしている。解かり易くするには「個人」対「個人」「個人」対「集団」「集団」対「集団」のそれぞれで「権利」とは何か、を整理する必要がある。 そしてもう一つ、「民間」対「国家権力」という切り口からも検討しなければならない。 私は基本的にアベノミクスの「規制緩和」には懐疑的だ。 この「規制緩和」は、「集団」や「国家権力」への規制を緩和しているのであって、裏を返せば「個人」への「規制管理強化」となっていると感じるからだ。 つまり「個人」の「自由」や「権利」を犠牲にして行われる「規制緩和」でしかないからだ。 「女工哀史」や「蟹工船」に象徴される時代から、「個人の権利」を勝ち取るために様々な市民運動が行われて、現在の憲法や民法、労働法制、生活保護法などに結実した。…はず、だ。 しかし、昨今はこの大切な「個人」の権利を平然と「行き過ぎ」だと発言する国会議員が増えてきて、あからさまな「権利はく奪」を行おうとしている。 国会議員は本来、「行政権力」と対峙する役割を担っているのではなかったか。 さて、「特定秘密保護法」に話を戻そう。 どんな個人にも他人には明かしたくないヒミツがひとつやふたつあってもおかしくない。また、あの人には知られてもいいけど、あの人には知られたくないというように、ヒミツにはその中身と「誰に対して」なのか、という二つがあるように思う。 個人のヒミツならば、その人との関係性の問題なので付き合い方を考えればよい、ということで済むだろうが、国家権力が国民に対してあからさまな「秘密」を振り回したらどうなるだろう。 残念ながら国家権力に対しては「付き合い方」をなんとかすれば済むということではない。なぜならば、特定秘密に指定したものを公開したならば「罪」に問われる、からだ。 そしてもう一つ重要なのは、「特定秘密」になってしまったが最後、国民にはその内容どころか存在にも全く気が付けなくなる、ということだ。 つまり「知らぬが仏」とか「目くら蛇に怖じず」どころの騒ぎではない。 秘匿されてしまえば、それはこの世に存在しなかったこと、になってしまうのだ。 他にも例えば、何らかの問題のある事態に気づいても、突然に「特定秘密」であることや、漏えいしたときの罪状をちらつかされて脅されるってことになる可能性も極めて高い。 法的に担保されていない「運用」上の歯止めは、あまりに軽い森担当大臣をはじめとする国会審議での答弁のみであって、これらは明らかに「形骸化」する。 そして「特定秘密」となれば、国民を代表して「立法」や「行政監視」をする「国会議員」に対しても公開されないことになる。 こうなってしまうと、もはや国会が存在する意味も失われる。都合の悪いことはすべて「特定秘密」だと言えばよい。 「特定秘密保護法」とは、言い換えれば、国家による「完全犯罪実行法」ってことだ。 なんでこんな法律を国会議員たちは成立させてしまうのだろうか。 安倍首相にしても永遠に権力の座にあるとでも思っているのだろうか。 最近の選挙では、「政治主導」だの「決断する政治」だのと、なんとまあ勇ましい言葉が声高に叫ばれていたが、官僚に情報を独占されて、どんな実効性のある政治が実現できるというのか。「特定秘密保護法」は政治の自殺行為でしかないが、そこに思いが至らない国会議員たちには何を期待すればいいのだろうか。