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自分自身がここへきてようやく、「反復練習の楽しさ」と言う感覚をつかみ始めたせいか、生徒達にもそれを伝えるようになってきました。
昨日も、「頭ではわかるけれど、うまくいかないと放り出す」ちゃんが、「もう一回」の掛け声の前で、ぐずらーっと椅子から落ちそうになっていたけれど、あえて、「もう一回」。(笑) この、ある種、軍隊チックなやり口への反発心が旺盛すぎたため、無駄足踏んだと反省したのもありますし、なんか昨日は「ここで譲っちゃいけない」という感覚もあったので、とにかくクールに「もう一回」 ぐずらーちゃんが、数回の練習を経て、それをできるようになったとき、顔が輝いていたので、良かったんじゃないかと思いました。 夜には、それこそあたしの鬼門として、どう転んでもどうあがいても、その一言一言にいちゃもんつけたくなるのをこらえてこらえて数年の「横綱」とのレッスン。 発表会明けから、「おうち練習が頑張れない」と堂々とのたまい続けた「横綱」に渡していたテキストですが、横綱にしては丁寧に弾いてありました。 「弾いてくるとね、音が輝いてるからわかるの」と言うと、まんざらでもない様子。 「このテキストは、ちょうど練習しやすい」と、キレ気味教師のあたしが聞くと「ナニサマ!」の発言も、練習後ならばまだ聞けます。客観的に聴けば、教師への敬意も伺えるんでしょうけれど。 自分でも何か探すために動いてみてよ?と言いたくなることが連続するとね、ダメになってくるんです。こちらも。 練習できなかったときに、「この曲は好きになれない」とか「練習ができない」と言われると、「ごちゃごちゃ言わずに弾かんか!」と思いましたが、神経数十本切りながら耐えてきた日々。 横綱の本心だともわかるのです。全ての言葉が。でも、本心ならばなんでも耐えられるかと言われたら、全力でノーと言いたい。 せめて、ほんの少しでも申し訳なさそうなニュアンスが欲しい。 でも、それを今まで彼女に求めることはできませんでした。 おうち練習のおもしろさがわかり始めたらしい横綱に、 「あたしも最近ようやく、繰り返すことの面白さがわかってきたの」というと、共感の返事が戻ってきました。そして、今までどう転んでも、「そりゃ聞き手には不快」としか思えなかった言葉に、謙虚さ、申し訳なさ、といったニュアンスの発言も付け加えられるようになっていました。 「もし、発表会にまた出るのなら、今度は少し優しい曲にしたい。逃げだとわかっているけれど、今はそうしたい」・・・おお。逃げ、という言葉を使いますか。そういわれれば、私だって素直に返事が出来るじゃないの。 「それは逃げじゃない」とね。 そして「このちょうどいいテキストだと、弾けるようになるとうれしいから、ついつい何度も弾いちゃう」とも。ああ、素直に聞ける。 「だよねーーー」と言いつつ、横綱との日々を振り返る。ああ、振り返る。君の口から出た恐怖の一言とともに。 その一言によって突き落とされた奈落の景色とともに。 振り返りまくりました。やっぱり、どう頑張っても納得できないあの日々。 納得なんかできるか!! ・・・という反骨精神が私を結局痛めつけるけれど、これがなくては今もない。 私はダメ人間です、と全力で思ったら、人は生きようとはしません。だから、最後の根っこで「自分は正しい」と思うようにプログラムされている。それを壊すことは、その人自身を壊すこと。 反復練習、夢や希望、自信。 たかが、ピアノですが、相反するものがこんなにもたくさん詰め込まれています。 その一つ一つを教えることに、どれほど迷ったことか。 それでも、生徒達の「夢、希望、自信」を失わせないために、アタシはその全てをなくした。 なくしたからこそ、なくしてはいけないと知る。だから、反復することの楽しさを体にしみこませるように教える。反復が楽しくなったことを確かめてから、反復を教える。 ただの反復とは違う、楽しい反復には何が必要なのか、この壊れ果てた感覚で確かめてから、反復を促す。 もしかしたら、順番が違うと指摘されるかもしれない。そんな道順を辿ったことこそが、私の傲慢さだと言われるかもしれない。でも、歩き始めた道を歩き続けたら、この順番だった。 それを傲慢と言うのなら、好きにしてちょうだいなと思う私が確かにいます。←だから私は嫌われるんでしょうけれど。もうそれこそ好きにしてちょうだいです。 だってもう、これ以上、何もできないから。一人でなんて、戦えないから。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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