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カテゴリ:テレビ番組
■だから最初から言っていたじゃないか。父親探しに興味はないって。このドラマの自分にとっての魅力は30年後の前略の追体験であって、板場の秀さん、指差し確認、”お兄ちゃん”というお嬢さんの呼びかけ、八千草さんのそそっかし加減、もうそんな再現されることなんかないだろうと思っていたあれやこれやを、見せてくれただけで充分満足だったわけで。
■この作者の最終回の筆の運びの歯切れの悪さには定評があって、物語が収束する方向に向かってあらゆる疑問点が解消されるなんて事はありえないと思っていた。最後のエンドロールに重なるのはまたぞろ続く日常であって、第1回よりは少しはオトナになった主人公が相変わらずの仕草で働いている場面なんだろうなという想像は出来ていた。 ■結局のところ、雪乃ちゃんの相手は誰なんだか封印されたまま終わったけれど、彼女と奥田瑛二の再会シーンはずいぶんとしっとりとした良いシーンだった。秘かに高島礼子がフランス語しか話さないなんてシチュエーションを夢想してみたのだが、敬語とも日常語ともつかない23年ぶりの距離感のつかめない話し言葉は聞きようによっては外国語のようにも聞こえたわけだ。 ■一方若い方のカップルはカナルカフェに向かいあって初めてのデートの時のように筆談で会話する。明日あたりオープンカフェでわざわざノート持参で現れるカップルも多いのではないだろうか。実は私も言葉よりも文字にされた感情にグラッときてしまうことも確かにある。 ■しかし、23年ぶりと30日と22時間ぶりとを比べてみれば、23年の中には1ヶ月が276回ほど含まれているわけで、男と女の年季にも276倍くらいの差があってよろしいということになる。23年間というのは桜が咲いて散るのを23回も繰り返し見てきたことを意味すると考えれば、人生経験なんて言葉も満更バカにしたものではない。でもまあ、特別な年齢、特別な時期というものはたしかにあってその時でなければ感じられないあれこれもあることも確かだ。 ■さらに年月の話を続ければ、70年神楽坂に住み続けた人にとっては23年間も、まして30日の空白なんざ、ほんの一瞬の出来事のようなもので、70年の歳月が音をたてて崩れ落ちていく様子なんかそれこそ見たくも聞きたくもないはず。あのタイミングで橋を渡った一平の車は作者の思いやりの為せる業で、彼女が口ずさんだ歌が「17才」だったというところがかなり浸みた。まさかセブンティとセブンティーンを言い間違えたわけでもないだろうに。 ■実は車の中で八千草薫があらたまって岸本加世子に話し始めた場面で、例の「私、本当に生きてていいの?」というセリフが出てくるのではないかと内心ヒヤヒヤして見ていたのだが、党の迎賓館ネタで落としてくれたので少しほっとした。そう、これはあくまでコメディの体裁をとった楢山節考だったのである。 ■やっと封印していたシナリオ本のページをめくることができる。正直、最終回まで楽しみに見ることができるとは思わなかった。常連役者はもちろん、二宮和也、黒木メイサ、高島礼子が良かった。そしてスイッチが入ってしまった倉本聰はまだまだ健在だということを示してくれた。平成19年の現代劇を書いても、この人の中にある昭和の心はなんだかとても人をザワザワさせる力を持っているんだと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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