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テーマ:たわごと(26739)
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「人間存在と心の精神分析」をS大学聴講生として3回目を迎え、毎回感じることは・・・「人が生きることの意味」とは、性別、年齢はもちろんのこと、各思想・宗教などでもそれぞれ異なるものですが、最終的に「人生終盤時には・・きっと答えの出せない」問いかけではないかと・・感じています。
私の母は90歳で3年前までは、週2回「習い事の踊り」を35年間続けておりましたが、腸脱という病気になり、手術をしましたが、残念ながら歩行困難の生活を余儀なくされました。 父は母の退院後、呆気なく2か月で帰らぬ人となり、母は一度に自分の「趣味と夫」を亡くし、母にしてみれば、人生終盤にして「最後の生きがい」を同時に失ったようなものです。 外交的で明るかった母の性格は、3年で疲弊してしまい、何を見ても、何を食べても、どこへ連れ出しても、心は浮かなく、社会より離脱した自分を悲しみ、自分に生きる意味を見いだせなく、日々悶々と、ベランダより見える隣の家の屋根の上の空を眺めては・・・自分は子供のお荷物、子供を不自由にさせる厄介者、自在にできない下半身・・こんな自分をどのように生かすのか、生きていて本当に良いのか・・・希望もなく、惨めで、生きたくもあり、生きたくもない・・アンビバレンスな心で悩み苦しむ。 豊かな老後・・書店では高齢者向けの本がかなり出回り、セミナーなども開催されてはいるけれども、健康を第一に頑張ってきた母のような事例もあり、病はどんなところからでも飛び出す。 腸脱になるなんて予想外のことであり、私たちも母も狼狽している。 健康であってもなくても「生きる意味」を見出すのは難しいことですが、自分の好きなことができる範囲、夢中になれる状態がある限りは、そう悲観的にはならないかもしれません・・。 人生終盤にさしかかり、頭はしっかりしているも、足が不自由になり、子供たちの介助の元、何とか自立、・・・こんな母は「自分とどのように向き合えばよいのか・・」と煩悶している。 自分を愛おしく思い、生きてきたことに自画自賛する・・・専門書には書いてあるけれども、それだけでは満足できない自分に葛藤するのではないかと思います。 結局は心がけ次第という答えが出るかもしれませんが、「老いて生きること」は難しく、誰もが必ず潜る通行所でもあります。 その年齢にならなければ判らないことが沢山あり、わが身になって初めて・・・そうだったのね・・と感じ、先人たちが如何に悩み苦しみを抱いていたのかと、講師である有名な精神科医でもあるY先生も仰います。 「老いるとは、惨めなことであり、それを受け入れることが先決である」 長く生きて周囲・子供に迷惑をかけたくない、まるで長生きすることが罪悪のよう・・・・年老いた個人の尊厳を確保するということは、本当に容易いことではないと、日々、感じ・・・私もまた、将来の自分に問いかけてみる …私は、本当にこれでよいのか・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016年06月04日 14時10分10秒
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